[2020_09_11_05]2011年3月、原発事故「最悪のシナリオ」を作った科学者の証言(現代ビジネス2020年9月11日)
 
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2011年3月、原発事故「最悪のシナリオ」を作った科学者の証言

 2011年3月11日、東日本大震災によって引き起こされた福島第一原発事故。事故発生から数日の間に1号機、3号機、4号機が次々と爆発し、日本と世界を震撼させた。
 そのとき、首相官邸の要請で策定された「最悪のシナリオ」があった。莫大な量の放射性物質が撒き散らされ、東京からも避難せねばならなくなる――。現実には、そのような事態は辛くも避けることができたが、当時の政府関係者と原子力関係者は未曾有の緊急事態をどう見ていたのか。
 2011年3月25日に発表された技術的予測「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」の作成者で、当時原子力委員会委員長を務めていた近藤駿介氏に、首相補佐官として当時事故対応にあたった細野豪志衆議院議員が話を聞いた。(構成・林智裕、ライター)

「最悪のシナリオ」までの2週間

 細野 今日は、高レベル放射性廃棄物の最終処分を取り扱うNUMO(原子力発電環境整備機構)という組織のトップであり、3.11当時は原子力委員会委員長を務めていた近藤駿介さんからお話を伺いたいと思います。近藤さんは、東京大学工学部で長年教鞭をとられた日本有数の原子力の専門家です。
 原子力委員会は原子力政策を決める組織(内閣府におかれた諮問委員会)で、規制側の立場ではなかったわけですが、事故が起こった当時に委員長として何をお感じになったのか、伺えますか。

 近藤 まず「原子力安全委員会」と「原子力委員会」の違いから説明しますと、当時は原子力委員会に並立して設置されていた「原子力安全委員会」が、原子力災害が起きた際、総理のアドバイザーとして災害対策本部における防災対策の立案などにあたることになっていました。一方、「原子力委員会」には、原子力災害対策にかかわる役割の規定はありませんでした。
 ただ、私は原子力委員長をお引き受けするまで大学で原子力工学の研究・教育に従事し、特に原子炉の事故についての確率論的リスク評価技術を専門にしてきました。行政組織の技術顧問も長く勤めていましたので、原子炉の過酷事故(シビアアクシデント)に関する知見は有しておりました。
 2011年3月11日は、地震が起きてすぐ、これは尋常ならざる事態だと感じ、委員会事務局に連絡して、太平洋岸に立地している原子力発電所が安全停止したかどうかを調査・報告することを求めました。しばらく経って、テレビで津波が迫っていることを知り、どうなることかと気をもんでいたら、福島第一原発が全交流電源喪失に至ったとの知らせが入った。そうなると、絶対に維持しなければならない停止時炉心冷却機能を確保する手段が限られてしまいます。現場の皆さんの安全を念じつつ、その日は帰宅しました。

 細野 私は11日から官邸に詰めて、15日から東電本店で対応しましたが、当時は原子力安全・保安院と経済産業省、エネルギー庁が混然一体としていて、原子力に詳しい人間はほとんど東電に集まっていたわけですね。
 そのとき、多くの原子力系官僚が近藤先生の知見を聞きたいと話すのをよく聞きました。原子力の安全規制行政は原子力安全委員会と保安院がやっていましたが、原子力委員会のトップである近藤先生を頼る声が現場では多かった。

 近藤 私は原子力委員会の委員長に就任する前、原子力安全委員会の技術顧問として、安全確保に関するルール作りや安全規制行政の方針決定、評価などの作業に意見を述べていました。当時の原子力安全委員長の班目春樹先生も、その前には私と一緒に技術顧問をしていました。

 細野 私が近藤先生のところにお邪魔し始めたのはおそらく3月16、17日あたりからでしたが、それから連日、状況を報告してご意見をいただいていました。当時は参与がたくさんいて、様々な意見があったんですが、一番実務が分かって頼りになるのが近藤さんだとの思いがありましたので、通い詰めたのを今でもよく覚えています。

 近藤 毎朝8時にいろいろな方がお集まりになりましたよね。それぞれが重責を担われている方ばかりですから、基本的な認識だけは共有しないといけないと考え、私は毎朝紙一枚に現状認識と課題をまとめ、お配りしていました。

 細野 しかし、時が経つにつれて事態はどんどん悪化していった。そうした中で、本当の最悪の状況に陥ったとき、何をやらなければならないかを考える必要が出てきた。そこで政府として、近藤先生に「最悪のシナリオ」を作ってください、とお願いすることになりました。それが確か、3月の20日か21日です。
 当時、近藤さんには「数日で作ってください」とかなりの無茶を申し上げたのに、25日にはかなり詳細なシミュレーションを出していただき、驚きました。

 近藤 実は、お引き受けした大きな理由の一つは、アメリカ政府が独自に出したシミュレーションに違和感を抱いたことでした。
 アメリカ側は、事故の被害状況が毎日拡大していたうえに、日本側から情報が入らず、どう対処すべきか分からなくて苛立っていたようです。ですから私は、保安院や安全委員会に対して「情報発信をしっかりすべきだ」と申し上げていました。
 そうしたら、アメリカの原子力規制委員会(NRC)が、放射性物質が飛散する距離と予測される被ばく線量の計算結果をホームページに出したんですよ。在日アメリカ人に警告を出すためには致し方ないと思いましたが、計算の前提が明確でなかった。そこで、日本側も適切な仮定のもとに計算を出して、そこは誤解だ、とかそこは合ってる、といったやりとりをアメリカ側とできるようにするべきと思い、安全委員会の事務局に詰めていた、この種の計算の専門家であるJAEA(日本原子力研究開発機構)の本間俊充氏に分析を相談したんです。それで、彼が解析プログラムや放出放射性物質量、気象データなどを整え始めてくれた。
 総理官邸に呼ばれて、菅直人総理から「最悪のシナリオ」を作成できないか、と言われたのはその最中でした。私は反射的に、「今起きていることが最悪ですよ」と申し上げたんですが、当時起きていたこと以外にも心配なことがなかったわけではないし、本間氏に解析の準備はお願いしてあったから、「一週間くださるならやってみましょう」と申し上げて退出したのです。
 その時は斑目委員長も一緒だったので、帰りの道すがら、「安全委員会で(シナリオ策定を)やらないのか」と聞いたんですが、それどころじゃないという雰囲気だった。そこで翌日、プランB検討チームを発足させ、シナリオ作りを始めたのです。

もし4号機が持ち堪えられなければ

 細野 政府としては、「本当の最悪は何か」を明確にしておきたかったんです。「爆発はしません」と言った直後に、1号機が爆発しましたよね。その後、今度は「3号機4号機の爆発をなんとか止めましょう」と言ったそばから、3号機と4号機も爆発した。つまり、最悪だと思っていたことがそうではなく、さらに悪い状況になっていくという状態だったわけです。

 近藤 シナリオを作るにあたっては、プラントの構造を知っていて、内部の状況を推測できる人とともに、冷却が失われたプールで燃料が溶けてプールの床を壊しつつ放射性物質を放出していく過程を、地震からの経過時間に沿って解析していきました。これはJNES、原子力安全機構という保安院のシンクタンクがあるのですが、そこの知己の専門家たちに直接電話で相談して、お願いしたのです。状況や構図がちゃんと分かっていて、信頼できる人材に「一本釣り」で声をかけ、知恵や解析結果を出してもらって筋書きをまとめていった。
 それを踏まえて、放射性物質がどれだけ放出され、どう拡散していくかについては、先に申し上げた本間氏に、シナリオができたらすぐ計算に掛かれるように準備をお願いしました。JAEA東海研究開発センターの彼のチームが、データの準備をおこなっていたと記憶しています。

 細野 JAEAや原子力規制委員会の優れた人材を原子力委員会委員長が直接束ねて、知恵を絞った。普通ではありえないことですね。

 近藤 たとえば「4号機はどう壊れるのか」という予測には原子力構造物の専門家の意見が必要ですから、個別に相談に乗っていただきました。「最悪のシナリオ」の前提は、当時すでに爆発を起こしていた1号機が、さらに破損して格納容器が損傷し、蓄積されていた放射性物質が漏れ出すという事態でした。それ自体はさほど大きな被害をもたらすわけではないけれども、現場での作業ができなくなり、結果として4号機のプールが空になってしまう、というシミュレーションです。
 1号機は炉心溶融が進んでいて、揮発性の放射性物質は格納容器から漏洩してほとんど外に出ていますし、2号機も3号機も格納容器からリークしているようでしたから、これ以上放射性物質が出てくる可能性は少ないと考えるのが普通です。しかし、それを踏まえてさらなる「最悪」を考えなければなりませんから、みなさんのご尽力で一応は安定していた4号機が、安定状態を維持できなくなるとすれば、というシナリオを想定したわけです。
 そこで、「もう一度地震が起きて水素爆発が発生する」「プールの使用済み燃料に不測の事態が起きる」などの要因で、放射性物質がサイトの環境を汚し、4号機のプールの冷却が不可能になってしまい、大量の放射性物質が放出されるーーという想定を「最悪のシナリオ」としました。

 細野 その後、実際には4号機の使用済み燃料プールは干上がることを免れましたが、当時私が頻繁にやり取りしていたアメリカ政府の懸念も、やはり4号機の燃料プールの状況に集中していました。近藤先生の策定したシナリオは、現実的にあり得ないほど厳しい前提を置いてはいたものの、事態を分析する上で非常に大きな意味があって、その後の政府の対応に影響を及ぼしたんです。

 近藤 当時、アメリカ政府と米原子力規制委員会の合同チームのトップとして日本に来ていたチャールズ・カスト氏は、『STATION BLACKOUT: INSIDE THE FUKUSHIMA』という著書で、私のことを「専門家としておかしい」「1号機、2号機、3号機はもう出がらしだというのに、何かもっとひどいことが起きて、4号機にアクセスできなくなることを想定している。事態に怖気付いて判断が鈍ってしまうインテリの習性だ」と書いています。しかし彼は、総理の要請に基づいて、私があえて策定したシナリオということを知らなかったのでしょう。

 細野 私はカスト氏から、アメリカ側が想定した「最悪のシナリオ」を見せてもらったんですが、彼らのシミュレーションも日本側のものと最終的にはかなり近かった。違いは、近藤先生が出したものは「1号機の損傷」をきっかけとしているのに対して、彼らは4号機のプールそのものが何らかの形で干上がると想定していた。

 近藤 私も彼に、アメリカが想定している線量分布図をちらっと見せてもらったのですが、放射性物質の大規模放出が起きて、その上で(米軍基地がある)横須賀へ向かって強い風が吹く前提で計算していた。後でアメリカ側の計算の担当者から、「それでもこんなものだ、慌てふためくことはない、という判断をこれで共有できた」と聞きましたが、当時は別の反応を示した人もいたようです。

 細野 実は、4月の頭くらいまでアメリカ側は「4号機のプールは破損している」と主張して、日米で大論争が起きていたんですよね。

 近藤 日本は早くから4号機の上にヘリを飛ばして確認していたので、プールにちゃんと水はあると判断していたんですが、カスト氏の著書によれば、アメリカ側はそうは判断しなかったと。

 細野 最終的にはコンクリートポンプ車で実際に4号機のプールから水を採って、「放射線量には異常がない。プールが干上がっていたらこんなことはありえない」とアメリカ側にも確認してもらったんですよね。最初は「水を別に用意したんだろう」とか「雨が入ったせいで線量が低いんだ」とまで言われて、日本は非常に憤った。もう一回採って示して、ようやく納得したという経緯がありました。

「東京も危ない」国民の混乱

 近藤 米側は、原子力規制委員会委員長が早い段階で「プールが損傷している」と発言してしまった。そうなると、部下は余程のエビデンスがないかぎり、「あれは誤解だった」と言うこともできなかったんでしょうね。

 細野 ただ客観的には、4号機にはあれだけ新しい燃料がいっぱい入っていて、外から見ると建屋もボロボロだった。本当に大丈夫か、という懸念は世界中に広がっていましたから、それに日本はきちんと答える必要がありました。
 近藤 おっしゃる通りですね。

 細野 今回、このシミュレーションを改めて見直してみたのですが、かなりショッキングな内容だと感じました。
 線量の上昇は緩やかですから、いきなり避難が必要になるわけではない。ただ、数か月かけて放射性物質が広がって、福島第一原発から110kmまでの範囲については避難要請、200kmまでは自主的に避難したい人については認めざるを得ない線量まで上がる、という想定だった。200kmというと、東京の一部が入ります。もちろん、非常に厳しい想定ではあったわけですが、当時は国民の混乱もありました。どう受け止めればよかったんでしょうか。

 近藤 各地の汚染状況の分布図を「これが結果です」とお渡しするだけでもよかったのですが、何か説明をつけたほうがいいだろうと。そこで、チェルノブイリ原発事故の後にソ連から独立したベラルーシが、「年間被曝線量が5mSv(ミリシーベルト)増加すると予測される地域の人は避難させるべき、1mSvある地域の人は移住する権利がある」という、世界標準からすれば厳しめのルールを設けていたので、これを当てはめた図をお渡ししたのです。
 世界で一番厳しい基準を使ったので、移住希望を認める範囲に首都圏どころか箱根の山まで入ることになったのですが、そこは、「この厳しい基準を当てはめるとこういう結果になります」という前提条件をお示ししたつもりでした。伝聞や報道の過程で、その前提がきちんと伝わったかどうかはわかりませんが。

近藤駿介、細野豪志
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