[2018_05_07_02]東電元副社長が津波対策先送り 社員が原発事故公判で証言(週刊金曜日2018年5月7日)
 
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東電元副社長が津波対策先送り 社員が原発事故公判で証言

 東京電力・福島第一原発事故の刑事責任を問う強制起訴裁判の第5回公判と第6回公判が、4月10日、同11日と2日続けて東京地裁(永渕健一裁判長)で開かれた。
 この2回の公判に出廷した証人は、東京電力社員の高尾誠氏。同事故発生前に、福島第一・第二原発の津波対策を担当していた人物である。
 北海道の奥尻島が津波に襲われ、甚大な被害を出した1993年の北海道南西沖地震や、東電柏崎刈羽原発が被災した2007年の新潟県中越沖地震等を経て、原発を持つ電力各社は国(旧原子力安全・保安院)から、原発の地震・津波対策の見直しを求められていた。
 東電「土木調査グループ」の課長だった高尾氏は07年11月より、福島での津波対策を検討し始める。そして同グループは、国の専門機関「地震調査研究推進本部」(推本)が02年に出した地震予測「長期評価」を無視して津波対策は立てられないとの結論に達する。

 この「長期評価」では、
「福島沖を含む日本海溝沿いで巨大津波が発生しうる」
 として、過去に津波被害の記録がない福島沖でも巨大津波が起きる可能性を指摘していた。そこで高尾氏らは東電子会社「東電設計」に、「長期評価」に基づく津波高シミュレーションを発注する。
 こうした東電の意向は、同じ太平洋側に原発を持つ日本原子力発電にも伝えられていた。のちに東北電力、日本原子力研究開発機構(JAEA)も加わって「4社情報連絡会」となり、4社合同の津波対策会議が開催されるようになる。この場でも高尾氏は「(東電は)長期評価を取り入れる」と明言。また東電は、青森県下北半島の太平洋側に計画している同社の東通原発(青森県東通村)の地震動評価でも「長期評価」を取り入れていた。第5回公判では、同原発の設置許可申請書に書かれた「長期評価」の文言が、証拠として法廷の大型モニターに映し出された。

【最後まで津波対策を諦めなかったが間に合わず】
 そうした「長期評価」を受け入れず、津波対策の“壁”となったのが、当時の原子力・立地本部副本部長だった武藤栄被告である。
 08年6月10日、高尾氏ら「土木調査グループ」は武藤氏に、「最大15・7メートル」との津波高シミュレーション結果を報告。しかし翌7月31日の会議で武藤氏は、

「研究を実施する」
 と高尾氏らに指示。つまり、早急な津波対策ではなく、さらなる「津波研究」をせよ、と命じた。この時を振り返り高尾氏は、
「力が抜けてしまって、その後のことは記憶に残っていない」
 と証言。この際、武藤氏からは、津波対策先送りの理由も示されなかったという。
 だが、高尾氏は津波対策を諦めなかった。それまでは社内の各グループが個別に津波対策を検討しており、設備全体を見渡した津波対策を取れる状況にはなかった。そこで翌09年6月、高尾氏は直属の上司に対し、津波対策をとりまとめるリーダーの必要性を進言。しかし上司は「不要である」と取り合わなかった。
 それでも高尾氏は諦めず、10年7月に自身が「土木調査グループ」のグループマネージャー(GM)に昇進した後、「福島地点津波対策ワーキンググループ」(WG)を発足させる。東電の津波対策がやっと始動した。WG会議は11年3月までに4回開催され、同年3月30日には幹部も出席する「原子力企画会議」の場で、津波対策が議論される予定になっていた。が、その20日前の3月11日、福島第一・第二原発は巨大津波に襲われた――。



 こうした「津波対策の失敗の連続」を明らかにしないまま、原発事故の教訓を今後に生かすことなど、できるはずがない。それは、東電旧経営陣の3被告に刑事罰を科すかどうか以前の話である。刑事告訴とそれに続く強制起訴がなければ、同様の失敗は何度でも日本で繰り返されたことだろう。
(明石昇二郎・ルポライター、2018年4月20日号)

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