[2021_03_07_05]隠し続ける「不都合な事実」 繰り返された東電の過ち「砂上の楼閣―原発と地震―」第8回〜10回(47NEWS2021年3月7日)
 
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隠し続ける「不都合な事実」 繰り返された東電の過ち「砂上の楼閣―原発と地震―」第8回〜10回

 2006年9月に原子力安全委員会が耐震指針を改定し、既存原発が新指針に適合しているかを調べる「バックチェック」が始まった直後の07年7月、新潟県中越沖地震が東京電力柏崎刈羽原発(新潟県)を直撃した。東電と経済産業省原子力安全・保安院は震源の海底活断層の存在を03年には知っていたが、一般には公表していなかった。「不都合だから隠していた」との厳しい批判にさらされた東電の担当者は「同じことは繰り返さない」と心に誓ったはずだったが、上司の方針により、福島第1原発の大津波想定でも同じ「過ち」を犯すことになる。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽風当たり

 07年12月5日、東電の高尾誠氏は柏崎刈羽原発で記者会見に臨んだ。中越沖地震を起こした活断層を公表していなかったことの釈明だ。本社で地震や津波関係を担当する高尾氏が地元への説明役に呼ばれた。新たな海底活断層の存在を公表すると原発の運転に支障が出るかもしれない―。だから隠したのではないか―。「隠蔽体質」との激しい批判が巻き起こった。
 03年当時、保安院に活断層の存在を報告するなど手続きは踏んでいる。だが4年後に地震が起きると「運転に影響がでたのは土木担当の責任だ」などと社内の風当たりが強まった。
 「次は秘密にせず、速やかに公表しよう」。福島原発事故後、法廷で当時そう考えたと証言した高尾氏は、07年11月ごろから本格化させた原発の津波想定問題に熱心に取り組むことになる。バックチェックの一環だった。

 ▽因縁

 福島第1原発を襲う可能性がある津波を想定する上で課題となるのが、02年7月に政府・地震調査委員会が公表した地震予測「長期評価」だった。福島県を含む東北太平洋岸で大津波が起こる危険を警告していた。高尾氏は当時、保安院に呼び出されて福島第1への津波の高さを計算し直すよう求められたが、粘って計算をせずに切り抜けた経緯がある。
 今回のバックチェックでは、長期評価に対して同じ太平洋沿岸に原発を持つ東北電力、日本原子力発電などと歩調を合わせる必要があった。他社の担当者に、長期評価に基づく津波想定の必要性を説いたのは高尾氏だったとされる。
 07年12月、高尾氏から長期評価を考慮する必要性の説明を受けた原電の担当者のメモによると、高尾氏は「後で(当然すべきことをしない)不作為であったと批判される」と話していた。

 ▽報告

 率先して津波想定を見直していた東電は08年3月、「困った事態」に直面する。長期評価を基に、過去に起きた津波のデータを利用して計算すると、福島第1原発は最大15・7mの大津波に襲われるとの結果になったのだ。それまでの高さ5〜6mとしていた想定とは天と地ほど違う。
 そんな津波が来れば、高さ10mの敷地に原子炉建屋4基が並ぶ福島第1は水没し、緊急用の炉心冷却系統などの電気設備が使えなくなる。
 これを防ぐには10mの敷地の上に高さ10mの壁を造る必要がある。こんな計算結果を公表すれば、原発の運転が続けられなくなるかもしれない。だが、これを公表せず、高尾氏ら担当者で抱え込んだままでは中越沖地震の二の舞いだ。高尾氏は上司の酒井俊朗氏、部下の金戸俊道氏と共に、彼らの上司である原子力設備管理部長の吉田昌郎氏に報告した。吉田氏も事態の重大さに「私では判断できない」として、原子力・立地本部副本部長で常務の武藤栄氏に判断を仰ぐことを決めた。

 ▽経営判断

 武藤氏への説明は2回行われた。最初に15・7mの計算結果を報告したのは6月10日。大きく跳ね上がった数値に武藤常務は仰天し、長期評価の根拠などについて質問を重ねた後、宿題を出して再度説明するよう求めた。防潮堤など対策工事の結論は、この時は保留された。
 7月31日、東電本店の会議室であった2回目の説明会で、酒井氏は陸の防潮堤と海の防波堤を組み合わせる大規模工事が必要だと説明した。費用は数百億円、工期も年単位だ。
 30分ほどの説明を聞き、武藤氏は「(津波計算の)信頼性が気になるので第三者に見てもらった方がいい。外部有識者に頼もう」と切り出した。津波想定の見直しも対策工事も「先送り」するというのだ。
 武藤氏の指示は「保安院へのバックチェック報告は現状の津波想定でしのぐ」「津波評価の再検討を土木学会の有識者に委託する」「津波対策は東電の自主的な見直し作業として行う」との趣旨だった。

 保安院が待ってくれる保証はない。酒井氏は「審査に間に合わないです」と口を挟んだが、武藤常務は「未来永劫、対策を取らないわけではない」と譲らない。酒井氏は予想外の展開を受け入れた。金戸氏は「経営判断だ」と考えた。だが、高尾氏は、本人の弁によれば「予想しない結論に力が抜け、やりとりを覚えていない」。柏崎刈羽の教訓は生かされなかった。

 ▽理由

 指示を受けた酒井氏は急いで自席に戻り、東北電と原電の担当者たちにメールを出した。東電が主導してきた、長期評価に基づく対策が白紙になったことを伝えるためだった。
 8月6日。東電から原電に出向し、津波問題を担当していた安保秀範氏は、酒井氏に白紙撤回の理由を尋ねた。「(中越沖地震で)柏崎刈羽も止まっているし、これと福島も止まったら経営的にどうなのかってことでね」と説明されたと、安保氏は原発事故後、東京地検の聴取で話した。

震災4日前、東電が報告した大津波の想定
「砂上の楼閣―原発と地震―」第9回

 2008年夏、東京電力は福島第1原発を襲う可能性がある大津波の想定について、対応を「先送り」した。だが、新たな難題が持ち上がる。平安時代の869年に起きた貞観地震の大津波が、福島沿岸に及んだことが解明され始めたのだ。政府の地震調査委員会が貞観津波の研究成果を公表すると知った経済産業省原子力安全・保安院に対し、東電は以前から社内で計算していた高さ15・7mの津波想定を初めて報告した。東日本大震災の4日前のことだった。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽宿題

 新潟県中越沖地震(07年)の影響で、保安院は地震想定を中心に、耐震指針に適合しているかを調べるバックチェックの中間報告を求めていた。貞観の大津波が原発に影響する可能性が初めて指摘されたのは09年6〜7月、有識者委員の審査会合だった。「貞観の地震で非常にでかい津波が来ている。全く触れられていない」。貞観津波の調査を手がけていた産業技術総合研究所の岡村行信氏が疑問の声を上げた。
 福島第1原発を担当していた保安院の名倉繁樹審査官は、津波に関しては中間報告ではなく最終報告に含まれるからと、東電への「宿題」にするとしてその場を収めたが、名倉審査官も彼の上司・小林勝耐震安全審査室長も、東電から肝心なことは何も聞かされてはいなかった。

 2008年夏、東京電力は福島第1原発を襲う可能性がある大津波の想定について、対応を「先送り」した。だが、新たな難題が持ち上がる。平安時代の869年に起きた貞観地震の大津波が、福島沿岸に及んだことが解明され始めたのだ。政府の地震調査委員会が貞観津波の研究成果を公表すると知った経済産業省原子力安全・保安院に対し、東電は以前から社内で計算していた高さ15・7mの津波想定を初めて報告した。東日本大震災の4日前のことだった。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽宿題

 新潟県中越沖地震(07年)の影響で、保安院は地震想定を中心に、耐震指針に適合しているかを調べるバックチェックの中間報告を求めていた。貞観の大津波が原発に影響する可能性が初めて指摘されたのは09年6〜7月、有識者委員の審査会合だった。「貞観の地震で非常にでかい津波が来ている。全く触れられていない」。貞観津波の調査を手がけていた産業技術総合研究所の岡村行信氏が疑問の声を上げた。
 福島第1原発を担当していた保安院の名倉繁樹審査官は、津波に関しては中間報告ではなく最終報告に含まれるからと、東電への「宿題」にするとしてその場を収めたが、名倉審査官も彼の上司・小林勝耐震安全審査室長も、東電から肝心なことは何も聞かされてはいなかった。
 彼らは直後の9月、東電に貞観津波についての現状報告を求め、研究結果を反映すると福島第1で8〜9mの津波が想定されるとの計算結果を聞いた。原子炉建屋のある高さ10mの敷地には届かないかもしれないが、高さ4mの海沿いの敷地にある原子炉冷却用海水を取り込むポンプとモーターは水没する。ちなみに、貞観津波とは別の津波を想定して08年に算出していた最大15・7mのシミュレーションは報告しなかった。
 東電は「土木学会で専門家に検討してもらい、自主的に対策する」と説明したとされる。15年9月に政府の事故調査委員会が公開した聴取記録によれば、名倉氏はこの時、東電に具体的な対策を早期に講じ、最終報告を急ぐよう求めたが拒否された。だが、名倉氏はその後、記憶違いだったとしてこの聴取内容を否定。同席した小林氏も「同席しなかった」などと、一時は虚偽の説明をしていた。東電を適切に指導、監督できなかったとの後悔が2人にあるのは間違いないだろう。いずれにせよ、貞観津波についてははっきりしないことが多く、東電の最終報告を待てばいいと判断したようだ。

 ▽沈黙

 翌10年2月、福島県の佐藤雄平知事は、プルトニウムを原発で用いるプルサーマル発電を福島第1の3号機で行うことを認める条件として「3号機の耐震安全性確認」を表明した。プルトニウムを燃料として消費するはずだった高速増殖炉が実用化できず、窮余の策として政府が推進する国策だった。
 福島第1の地震想定は中間報告で済んでいた。仮に福島県が、東電が示していない津波想定まで含めて確認を求めれば、プルサーマルの実施は遅れることになりかねない。津波には触れないことは、エネ庁と福島県の「あうんの呼吸」で方針が固まったが、小林室長は津波を無視しない方が良いと考えていた。
 小林氏によれば10年7月ごろ、上司の野口哲男・原子力発電安全審査課長に「原子力安全委員会に話を持っていって、議論した方が良い」と直訴した。野口課長は「その件は安全委と手を握っているから、余計なことを言うな」と退ける。ノンキャリの小林氏の人事を担当していた原昭吾・保安院広報課長には「あまり関わるとクビになる」と警告されたという。
 小林室長は、それ以上どうすることもできずに沈黙した。

 ▽空費

 保安院と地震調査委員会は、同じ政府の組織でありながら関係は希薄で、貞観津波の研究成果が反映された長期評価の改定が11年春に行われる予定だということに小林室長たちが気付いたのは直前になってからだった。
 福島第1の津波想定がどうなったのか調べるよう、小林室長が名倉審査官に指示したのが11年2月22日。名倉氏から連絡を受けた東電の高尾誠氏は翌日、副社長になっていた武藤栄氏にメールでいきさつを報告した。武藤氏は、08年夏に「先送り」の方針を決めた人物だ。
 武藤副社長が高尾氏に返信したのは3日後の2月26日。「話の進展によっては大きな影響がありえるので、情報を共有しながら保安院との意思疎通を図ることができるように配慮をお願い致します」とあった。
 高尾氏が小林室長と名倉審査官たちに、津波想定の現状を説明したのは3月7日。ここで初めて、08年に得られていた最大15・7mの計算結果を示した。
 「対策工事はできるのか」「(対応が)遅すぎる」。小林室長も名倉審査官も立腹したが、東電は保安院のバックチェック審査に加わる有識者委員たちにも根回し済みだという。「委員さえ了解してくれれば、保安院も従ってくれる」。東電は何とかなると踏んでいた。
 小林室長たちは東電の説明に、一応は納得した。高尾氏はすぐにメールで武藤副社長に報告を送る。それによれば、名倉審査官は比較的強い口調でこう言ったという。「口頭で指示を出すこともあり得る」。保安院にはこれが精いっぱいだったのだろう。
 東北太平洋沿岸に大津波が来ることを警告した長期評価が出た02年以降、具体的な大津波対策は何一つ実現していなかった。「絵空事」だと真に受けず、ただただ、時間を空費しただけだった。

失敗続きの歴史に学ぶ 福島第1原発事故の病根、今も
「砂上の楼閣―原発と地震―」第10回(最終回)

 未曽有の大惨事となった東京電力福島第1原発事故は、なぜ防げなかったのか。原発と地震、津波の歴史をたどれば「決められていないことはやらない」「義務でなければ先送りする」という行動を取った関係者が多くいた。最低限の手続きやルールさえ守っていれば文句は言われない―という保身。大組織によく見られるこうした体質はリスク管理とは相いれないものだ。事故の病根は、今も残されている。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽無知と反省

 2011年3月12日、東京・霞が関にある経済産業省別館の会議室。かつて担当していた原子力安全・保安院の記者会見に応援で駆けつけた私は「炉心溶融(メルトダウン)」という言葉を聞いて耳を疑った。福島第1原発で、そんなことが起きるとは―。メモを取りながらも頭は働かない。誰かがもう一度「メルトダウンでしょうか?」と念を押すまでの数分間、ただぼうぜんとしていたような気がする。
 保安院担当時代に取材した政府関係者は「原子力防災は、一般の防災よりも詳しく調査した結果に基づいて行っている」と、胸を張って説明していた。電力会社も同じだ。一般向けの防災想定には活断層の調査や研究の結果を、曖昧なものも含めて反映されているが、ふんだんに費用を使う電力会社の調査はもっと精度が高く、信頼できるという意味だった。そんなばかなと思いつつ、心の半分では、巨大な組織を誇る電力会社は傲慢ではあっても、いいかげんなことはやらないだろうと信じていた。
 記者になって約25年。その大半の15年近くを原発や地震の取材に費やしてきたが、大震災後の10年は自分の無知を発見する日々だった。

 ▽歴史を振り返る

 1973年に始まった原発建設の許可を巡る全国初の本格的な訴訟、伊方原発訴訟では、当時の原発耐震審査にルールが無いことが問題視されたが、訴えた住民側は敗訴した。その上、判決で「審査に合格すれば安全」という神話が生まれてしまう。
 78年に政府が初めて策定した原発耐震指針。日進月歩の科学的な知見を反映させるために定期的な改定が必要だと重々分かっていながら、その仕組みをつくらなかった。また、運転に支障が出るのを避けるため、新しい指針を古い原発に厳格に適用しようとはしなかった。
 95年の阪神大震災で指針改定を求められたのに、政府は先送りした。電力会社は古い指針を最大限利用して、明記されていない安全対策を免れようとした。
 2006年9月、約30年ぶりに改定された耐震指針には、初めて津波対策が明文化された。運転中の原発はきちんと対策が取られるまで運転を認めないという運用もあり得たが、電力会社と保安院は一体となって原子力安全委員会に「圧力」をかけ、運用を骨抜きにした。
 そして東電は、福島第1の大津波対策を先送りし、11年3月の事故で原発が爆発しても「想定外だった」と居直った。

 ▽もう一つの安全神話

 取材で、原発の地震想定が甘いのではないか―などと指摘すると、電力会社や政府の人から度々聞いた言葉がある。「でも原許可は有効なんです」。つまり過去に許可済みで、それは覆らないのだという意味だ。政府は、よほどのことがない限り、いったん出した安全のお墨付きを取り消すことはない。「お上」のやることに誤りはないという、もう一つの安全神話だ。
 これは電力会社にも都合が良かった。お墨付きが取り消されない以上、本当は講じなければならない安全対策であっても「自主的な取り組み」にできる。その気になれば、大地震や大津波への対策を好きなだけ先送りすることすら可能だったのだ。
 東電最大の柏崎刈羽原発は07年の新潟県中越沖地震で長期間、停止した。電力の安定供給で当てにしていた柏崎刈羽が止まった以上、福島第1、第2原発の計10基か火力発電所で補わなければならない。だが、大津波の対策を進めようとすれば福島の2原発も動かせなくなる可能性が高い。誰も本当に起きるとは思っていない大津波に備えるためだけに10基を停止させる必要はない―。当時の東電経営陣はこう考えただろう。
 巨大な影響力を背景に大津波の想定を先送りし、それを保安院にのませるよう動いたが、法的責任の有無は別として、それ自体はルールに明白に反していたわけではない。「少々荒っぽいが、しょうがないだろう」。そう思っていたのではないか。

 ▽ルールと安全

 福島第1原発事故後、新設された原子力規制委員会は「世界で最も厳しいレベル」(田中俊一・前委員長)の基準で原発の再審査を進めてきた。基準は安全委、保安院時代よりもずっと厳しくなったが、規制委は「審査に合格すれば安全」とは言おうとしない。そこには将来、事故が起きたとき責任を追及されないようにする組織防衛の思惑が見え隠れする。
 どんなに厳しい基準や指針、ルールにも必ずほころびがあり、形骸化の危険もある。専門家が加わっていたかつての審査と違い、役人が中心となる規制委の審査はルールを前面に押し出し、非常に細かくチェックするようになった。これだけで原発の安全を事前に保証することはできないのは当然だ。だが、規制委が審査合格≠ニすれば、多くの人は「この原発は安全なんだ」と信用する。それを知ってか「世間が勝手に思い込んでいるだけだ」と、規制委は見て見ぬふりをしているようにも思える。
 福島第1原発事故に限って言えば、政府・地震調査委員会が02年に出した長期評価で大津波を警告した際に、保安院が東電に試算を命じるとともにこれを公表しておけば、その後の進展は大きく違っただろう。だが、しかし、事故は長年にわたって、関係者が積み上げてきたミスや怠慢、無責任で形成された土壌から生まれた。その意味では、起こるべくして起こったのだ。
 原子力安全委員会の委員長を務めた佐藤一男氏は事故を振り返ってこう語った。「福島第1で起きたことはね、可能性は知っていた。だけど、(東電は)起こると思いたくなかったので、予測しなかったってことでしょう。危険をどこまで考えれば十分か。これは難しい。予測できないことを考えれば切りがないんだから」。これが原子力安全≠フ本質である。
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