[2023_09_29_02]JCO臨界被曝事故から24年 再び東海村で原子炉「常陽」が稼働するのか 高濃度ウラン燃料製造工程で起きた臨界事故 山崎久隆(たんぽぽ舎共同代表)(たんぽぽ2023年9月29日)
 
参照元
JCO臨界被曝事故から24年 再び東海村で原子炉「常陽」が稼働するのか 高濃度ウラン燃料製造工程で起きた臨界事故 山崎久隆(たんぽぽ舎共同代表)

 
◎JCO臨界被曝事故から24年

 茨城県東海村の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」の臨界被曝事故から、9月30日で24年になる。
 1999年9月30日午前10時35分頃、日本で初めての大規模原子力災害「JCO臨界被曝事故」が発生、従業員3名が高線量被曝し、2名がその後死亡、1名が重傷を負った。
 日本で初めて住民に対し避難指示が出され、JCOを中心に半径350mで避難が実施された。(ただし一部は東海村の境界まで)
 周辺住民667人が被曝した事故に対して、東京では毎年数十人が経産省前に集まって黙祷し、「事故を風化させない」との思いを新たに活動を続けている。
 当時、東海村の村長だった村上達也さんは、この事故を契機に原発をなくす活動を行うようになった。特に福島第一原発震災後は東海第二原発の廃炉に向けた活動に尽力している。
 現在の山田修村長は職員向けの訓話で「原子力防災への対応は、本村の重要な責務であり、東海村職員の使命であるということを、次世代の皆さんにも、しっかり認識していただきたいと思います。」「事業者をはじめとした関係者が、「安全が何より優先する」という原点を忘れてはなりません。『安全文化の醸成』には、一人ひとりの自覚が大切ですが、併せて、組織力や現場力の強化という不断の努力がなければ成しえるものではありません。」
     (JCO臨界事故から24年目を迎えて・東海村HPより)

 しかし人口密集地帯の東海村で、東海第二原発、「常陽」の再稼働を認め、住民避難を含む防災計画を作り、実行することが現実的なのかどうか、まずそれが検討されなければならない。
 JCO事故とは比べものにならない原子炉災害で、全住民を避難させる必要が生じた場合のことを考えれば、答えは自ずと明確ではないだろうか。

◎JCOとはどのような会社だったのか

 原発の核燃料および核兵器開発は、ウラン鉱石を採掘するところから始まる。
 日本にはウラン鉱山は既になく、全量を輸入しているが、鉱石で運ぶことはない。
 海外で精錬加工して、ウラン濃縮する直前にある「六フッ化ウラン」(常温では固体)や、ウラン濃縮と再転換を終えた二酸化ウラン粉末、あるいは燃料に加工した燃料集合体など様々な形態で輸入している。言うまでもなく石油と同様、全部輸入資源である。
 そのうち、ウラン濃縮を終えた段階の六フッ化ウランを燃料加工できる状態の二酸化ウラン粉末にする工程を「再転換」といい、さらに二酸化ウランを硝酸溶液に溶かして一定の比率(ウラン235の濃縮度)に加工する工程を「均質・ブレンディング工程」という。
 JCOは事故前年に社名を変更しているが、その前は「日本核燃料コンバージョン」と言っていた。
 この名前であれば、コンバージョンはそもそも転換という意味なので、直ちに核燃料会社の事故であるとピンときたのだが、最初は「JCOの転換棟で事故」の第一報では、誰も核燃料関連事故であるとは思わなかったという。
 この会社は、通常時は原発の燃料加工で「六フッ化ウランを二酸化ウランに転換する」「転換する際に濃縮度を調整する」という仕事を行っていた。
 しかし事故時は異なっていた。扱っていた燃料(硝酸に溶けたウラン)は高速増殖実験炉(当時)「常陽」の燃料だった。それが悲劇を生んだ。

◎「常陽」の燃料製造

 一般の原発はウラン235の濃度を3から5%で使用する。核燃料の大部分はウラン238である。
 一般に核分裂性ウランと呼ばれる235はわずかしか含まない。これが核兵器ならば96%以上の濃縮度は最低でも必要である。
 JCOでは、常に原発の燃料である3から5%の燃料を扱う設備が稼働しており、作業運用もそれに合わせて立てられていた。

 ところがJCOは動力炉・核燃料開発事業団(当時)から「常陽」の燃料の均質化作業を請け負った。これが一般の燃料と異なり、軍事用ではないウランの最高濃度に相当する18.8%のウラン235の燃料だった。
 ウラン濃度が高まれば、核分裂反応が連鎖的に起こる「臨界」に達しやすい。
 それを防ぐには質量管理と形状管理が必要なのだが、JCOは動燃から原発用設備を流用しても問題ないとの技術的な指示により、原発用の設備を流用して高純度ウランの燃料を均質化することにして、65リットル入る「沈殿槽」で40リットルの高濃度ウラン溶液を投入する最中に臨界に達し、大量の中性子線が発散。
 中性子を浴びて最も近くにいた2名が致死量の17〜10シーベルト(人は4シーベルト浴びればほぼ死ぬとされる)を浴びて、その後死亡、1名も離れていた場所にいたが3シーベルト被曝し、重症を負っている。

◎被害の規模と影響

 最初に臨界が発生した段階で、大量の中性子線が建屋を突き抜けて環境中にも飛び出した。
 その後も臨界は続いた。ほぼ1日、20時間続いたとされる。
 臨界を止める方法は、設備には何もなかった。もともと臨界発生など想定していない。臨界管理は設備の形状と投入するウランの量で厳格に管理することになっていたので、臨界状態になったときの対処方法など考えていない。

 そのため、建物の外部から接近し、沈殿槽の外周を取り巻く冷却ジャケットから水を抜くための作業を行った。
 沈殿槽はほぼ円筒形で、下半分を冷却ジャケットが囲む二重底の構造となっており、本来は沈殿槽を冷却する目的の水が、今回の事故では中性子の反射材の役目になっていて、このために臨界が継続していた。
 いわゆる「決死隊」が組織され、冷却ジャケットにつながっている配管のバルブを開けることによって水を抜く作業がJCOの社員により行われた。
 これが功を奏したのか、午前6時30分頃に臨界は止まったとされる。

 その作業により、100ミリシーベルトほどの被曝をした従業員がいた。
 これは、その後に起きる福島第一原発の「ベントバルブを作動させるための決死隊」などを思い起こさせるが、このような事態になっても誰が、どのような責任で作業を担うのか等の法的整備などはされていない。

◎住民被曝と裁判

 東海村の村上村長は、30日15時にJCOから半径350mの住民に対して、事故現場から2km離れた村の公共施設である「石神コミュニティセンター」への避難勧告を行い、150名全員を避難させた。日本で初めて、原子力災害による住民避難であったが、国や県が判断しないなかで、村上村長は自らの責任で避難指示を出している。

 事故の際、約150m離れた工場で仕事をしていて被曝した大泉昭1・恵子夫妻が、その後体調不良を引き起こしたことなどでJCOなどを提訴したJCO臨界被曝事故住民健康被害賠償請求訴訟。
 最終的に2010年5月13日最高裁により却下され、敗訴という不当判決だった。
 この裁判で主張された様々な健康影響は、その後の福島第一原発事故で数十万人が被曝した結果、急性被曝時の症状の多くが再現されている。(鼻血や倦怠感や様々な健康への影響、そしてPTSDなど)

◎東海第二原発と高速炉「常陽」を廃炉に

 事故の元となったのは高速増殖実験炉「常陽」の燃料製造(均質化)工程だった。
 この原子炉は、原型炉「もんじゅ」の開発のために動力炉・核燃料開発事業団(現在の原子力研究開発機構)により建設されたものだが、高速炉計画は「もんじゅ」の廃炉により事実上終了している。
 しかし「常陽」については、高速炉の開発や核のごみ処理として活用できるなどとし、再稼働の準備が進められている。現時点では2025年3月に再稼働をする計画だ。
 東海第二原発に加え、通常の原子炉よりも高濃縮燃料を使う「常陽」にも原子炉災害のリスクはある。

◎24年目のJCO臨界被曝事故の教訓

 現在、国は、原子力事故の責任を認め、教訓を引き出すどころか、原発再稼働、GX法による老朽原発の延命酷使、原子力拡大制度に加え、原因となった原子炉「常陽」運転再開の準備も進めている。
 さらに経済性を失っているプルサーマル強行に加え、その使用済燃料をフランスに送る計画など、さらに原子力事故の危険性を増す政策をとりつづけている。
 既に終わった計画である高速炉開発や真意不明の核のごみ処理などではなく、「常陽」の役割は、核兵器に転用可能な高純度(99%)プルトニウム製造にあるとの見方が有力だ。

 今すぐ核兵器開発に着手することがなくても、将来そのために必要な技術を開発しておくこと、それが「常陽」再稼働の目的であると考えられる。
 集団的自衛権の行使容認や日米韓にNATO諸国まで加えた台湾有事対応計画などは20年前には考えもしなかったことだ。
 それが現実化しつつあることを考えれば、「常陽」についても、この先の日本の未来に責任を持つ行動を取る必要がある。
 この事故を忘れない、風化させないことが原発事故を防ぐ大切な要素と考え、9・30臨界事故24周年行動を経産省別館前で実施する。

☆「9・30臨界事故24周年行動」の詳細は、目次下の案内を参照して下さい。
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