[2017_07_10_02]裁判資料(金沢)_原告意見陳述書(北野進)(志賀原発を廃炉に!訴訟 原告団2017年7月10日)
 
参照元
裁判資料(金沢)_原告意見陳述書(北野進)

 第23回口頭弁論 意見陳述

 志賀原発の運転差止めを求める本件訴訟の原告は石川、富山の住民、そして福島から石川に避難してこられた方5人を含め総勢125人。原告と思いを同じくするサポーター約3000人に支えられています。私はその中で原告団長をしております北野と申します。

 まず、私の経歴と原発問題とのかかわりについて若干述べさせていただきます。私の住む珠洲市ではかつて関西電力、中部電力、そして被告北陸電力の三社による珠洲原発の建設計画がありました。私自身、地域での反原発運動に取り組み、運動の中から市長選挙や県議会議員選挙に挑み、1991年から石川県議を3期務めました。当時、志賀原発は1号機の建設から試運転、営業運転へと入る時期であり、志賀原発の安全対策や防災対策の課題を県議会で毎回のように指摘をし、また1号機、そしてその後の2号機の差止訴訟の原告にも加わってきました。
 本日はこれまでの経験、そして若干の昔話も交えながら早期の結審を訴えさせていただきます。

 珠洲原発は住民の激しい抵抗や電力市場自由化などの原発を取り巻く環境の変化の中、計画が公になってから29年目となる2003年、3電力が撤退を表明し、幕を閉じました。この間、電力会社や国、珠洲市、地元の推進団体は豊富な資金力と権力を背景に、あご足つきの視察旅行は年中行事化し、著名人を呼んでの講演会や土産付きの原発PRの学習会も繰り返され、きれいなカラー刷のパンフが町にあふれ、さらに原発誘致を訴えるチラシが毎週のように新聞折込みで全世帯に入ってきます。チラシの総数でいえば数百万枚という単位になりますが、その中の一枚をまず紹介したと思います。

 「原子力発電所の津波対策は万全です。」との見出しで、志賀原発の対策も紹介されています。津波による最大上昇水位は2m程度とのことです。設置許可申請書にもこのように記載されています。当時、県議会議員をしていた私は、県の原発安全対策の責任者に聞きました。
 「最大が2mってそんなのありですか?」
 「北野先生、日本海ってのは小さな池のようなものですから、太平洋側みたいな大きな津波は発生しないんですよ」と、あたかも「そんなことも知らないんですか?常識ですよ」という顔をされたことを今でも覚えています。
 このチラシは平成5年4月9日付となっています。この10年前には日本海中部沖地震により秋田県、山形県、そして青森県の日本海側では10mの津波が発生し、100人が津波の犠牲になっています。さらにこのチラシから約3か月後の7月12日には北海道南西沖地震が発生し、震源地のすぐ南側に位置した奥尻島を津波の高さは16.8mに達し、最大遡上高は31.7mを記録、死者・行方不明者は233人にのぼりました。
 志賀原発の津波想定はその後5mに変更され、さらに新規制基準の下、7.1mへと引き上げられました。見直されたんだからいいじゃないか、原発の敷地はもっと高いからいいじゃないかと言われるかもしれませんが、ここで指摘したいのは、志賀原発というのは想定津波高2mというレベルの議論で計画され、国の審査を受けて合格し、建設された原発だということです。地震対策はじめ様々な安全対策も、そして社員の安全意識も依然2mのレベルにあるのではないでしょうか。

 福島第一原発事故直後、北陸電力は志賀原発の敷地海側に長さ約700m、高さ4mの巨大な防潮堤を建設しました。安全の上に安全を積み重ねたつもりなのでしょう。ところが昨年9月、大した大雨でもないのに大量の雨水が2号機原子炉建屋に流入し、冷却機能の喪失であわや大惨事という重大な事故が発生しました。金井社長は原子力規制委員会から「福島の経験が全く活かされていない」と厳しい叱責を受けましたが、まさに巨大な防潮堤は建設しても、浸水防止の安全意識は津波想定2m時代と変わらないことを象徴しているようです。

 本件訴訟の最大の争点である地震、活断層にかかわるチラシやパンフも紹介したと思います。
 「地震がきたって大丈夫」というパンフのタイトルがすべてを語っていると思いますが、大地震が発生しても頑丈な岩盤に直接建ててあるから大丈夫、建物も配管も心配なし。原子炉はすぐに停止し、冷やし、放射能は漏れないということです。その一方で断層によるずれの心配がないところを選定するといったチラシはありません。

 現在の敷地は北陸電力が断層や地質を調べ上げ、ベストと判断し選んだ場所ではないことは第14回口頭弁論での意見陳述で述べました。詳細は繰り返しませんが、北は福浦反対同盟、南は赤住を愛する会など地元住民の反対運動、とり分け強力な共有地運動によって用地買収は難航し、1967年に公表された用地買収計画は3回も変更を迫られました。その度に炉心予定地も移動を繰り返し、最終的に絶対に立ててはいけない場所に建ててしまった、それが現在の志賀原発です。
 被告はいまになって有識者会合や原子力規制委員会の審査会合で弁明を繰り返し、あるいはこの訴訟でも様々な準備書面を提出していますが、私には後付けの言い訳にしか聞こえません。

 2mの津波想定同様、当時から指摘されていた原子炉建屋直下の断層も含めた敷地内断層の活動性をどれだけ真剣に評価したのでしょうか。着工前の準備工事段階で工事関係者から敷地内に大断層が存在するという内部告発がありました。これに対して北陸電力は「詳細な調査の結果、原子炉を設置する上で安全評価上活動性が問題となる断層がないことをすでに確認してます」と回答し、現場には重機が入り、露頭を確認することはできなくなりました。いまさら詳細なデータが残っていない、建屋を建ててしまったから確認しようがない、などという言い訳ほど住民をバカにした話はありません。データがないなら証拠を隠滅したような話です。

 北陸電力が提出したデータは不十分であったとはいえ、有識者会合は2回の現地調査を実施し、事前会合やピア・レビューも含め10回の会議を重ね、最終的に全会一致で敷地内断層について「活断層の可能性否定できず」の結論に至りました。これで勝負あったです。敷地内外の21本の断層の活動性や相互の関係について、今後も研究者が様々な可能性を議論されるのは自由ですが、それはこの法廷ではなく学会でやっていただきたい。私も含め、多くの住民は科学論争の決着を裁判長に求めているわけではありません。

 志賀原発、かつては能登原発と呼ばれましたが、1967年に計画が公になって以降、受入を巡って地域を2分する激しい対立が続いてきました。当時、用地買収や漁業権の放棄という原発立地を巡る重要な決断に関わった多くの方はすでに亡くなられているかと思いますが、もしいま売買契約書を前にしていたなら果たしてハンコを押すでしょうか。断層の巣のような場所に建つ志賀原発に地域の未来を託し、先祖伝来の松茸山を手放すでしょうか。科学論争が無駄というつもりはありませんが、住民感覚で言うなら、そもそもこんな議論が浮上するような場所に原発を建ててしまったこと自体が問題です。過去にさかのぼって売買契約を取り消す判決が下せないのならば、未来に向かって危険を除去する、不安を取り除く、原発のない地域の未来を住民に託す、それが裁判所の役割ではないでしょうか。

 冒頭、珠洲市内に配布された津波のチラシを紹介しましたが、北陸電力をはじめとした電力会社の主張が崩れたのは決してこのチラシだけではありません。「地震がきたって大丈夫」というキャッチコピーはじめ、多重防護や5重の壁を記載した安全対策、電力需給の見通しや自然エネルギーに対する評価、原発立地による地域振興などなど様々なテーマのチラシが、その後の科学や技術の進歩、社会の変化、そして何より福島第一原発事故を経て、いま改めて配布できるようなものはほとんどありません。明治や大正の時代のチラシならいざしらず、たかだか10年20年前のチラシがこの有様です。
 様々な主張に慎重に耳を傾けることは大切なことです。しかし福島第一原発事故を経験し、その現実に向き合わない、あるいは教訓を汲み取ろうとしない主張に付き合うことは時間と労力の無駄と言わざるをえません。
 もはや訴訟を引き延ばす理由はなし。将棋で言えば「北陸電力さん、持ち時間を使い切りました」という段階です。

 1、2号機が揃って停止して6年4カ月が経過しました。原発はあって当たり前と思っていた能登の住民の意識も徐々に停止から廃炉へと移り変わっているように思います。志賀原発の計画が公表され、今年でちょうど50年、原発の歴史の転換点となることを原告はじめ多くの住民が期待しています。早期結審、そして歴史の検証にも耐えうる判決がぜひこの節目の年に出されるよう求め、意見陳述とします。


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