【記事10262】震災の新潟 ついに大火 200戸を焼きつくす タンクは猛煙 消火弾投下できず 給水対策に全力 進まぬ信濃川の復旧作業 信越線あす開通 住宅建設、万全に 河野本部長あす現地へ 山形、秋田の被害も広がる(毎日新聞1964年6月18日)
 
 

※以下は上記本文中から重要と思われるヶ所を抜粋し、テキスト化したものである

【新潟】新潟地震の発生以来燃え続けている昭和石油のタンク火災は、17日午後になって、ついに風下の住宅地に飛び火、18日午前零時までに、隣接の約200戸を焼きつくし、新潟全市の上空は物すごい黒煙に包まれている。焼失したのは同市臨港町1,2丁目、松島町の住宅地で、危険を感じた同市の対策本部は、現場から半径1キロ以内の全住民を避難させた。"地震"”水害”に続く火?は市民をおののかせたが、救援の自衛隊と消防隊は全力をあげてやっと延焼をくいとめた。タンクの消火見込みはついていない。
 16日午後1時2分、地震発生と同時に燃えだした昭和石油の5つの重油タンクは、必死の消防活動をしりめに17日朝”火防線”とみられていた運河に流れ出した重油に火がついたことから、次々と新しいタンクに引火、同工場と近くの亜細亜石油のタンクに合わせて47個が燃え、残っているのは5000KL入りのガソリンタンク9基だけとなった。
 災害対策本部では、民家の延焼防止に必死の努力を続けたが、午後から吹き出した風速5−7メートル北風に火勢はいっこうに衰えず、午後1時20分、風下に当たる臨港町など、約5万人に避難命令が出された。
 米軍も午後1時40分、空中から消火弾を投下することになり、立川基地からC38など数機が2700ポンドの消火弾、消火剤を積んで上空に飛来したが、あまりの火勢と黒煙に目標が定まらないため、夕刻まで上空を旋回するだけで消火弾は投下できず、空港に消火剤を投下しただけだった。
(中略)
 東京消防庁の化学消防車5台が17日深夜、新潟に到着したが、同本部では高岡、富山の各消防署、東京石油連盟などにも化学車出動を要請、計13台で、18日早朝から泡沫消火剤による火災タンクの消火を開始した。
 なお引火した場合は有毒ガス発生の恐れがあるとみられていた4エチル鉛は、17日夜、自衛消防隊が昭和石油の貯蔵所から安全な場所に移し、危険はなくなった。同日午前11時ごろ爆発したタンクは、4エチル鉛とみられていたが、原油タンクとわかった。
(後略)

※文中の?は判読不明箇所である。
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