【記事50860】戦時下に起きていた「逆神風」(島村英紀2017年1月20日)
 
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戦時下に起きていた「逆神風」

 日本人が知らされていなかった大地震があった。
 それは三河地震。1945年1月13日、第二次大戦の終戦の半年あまり前に、愛知県を襲った内陸直下型地震だ。マグニチュード(M)6.8だった。
 2ヶ月前の1944年12月に東南海地震(M7.9)が起きて、当時、軍需工場が集中していた名古屋に壊滅的な被害を与えてから間もないときだった。東南海地震は、恐れられている南海トラフ地震の直近の先祖である海溝型地震だ。
 この二つの地震の報道には厳しい報道統制が敷かれた。軍需工場が大被害を受けた「逆神風」が敵国に知られるのではないか、戦争で疲れ切っていた国民の戦意をいっそう喪失させるのではないか、と軍部が恐れたのだ。
 このころ太平洋やアジア各地で日本軍の撤退や玉砕が続いていて、これらの情報も同じ理由から報道されなかった。
 この二つの地震は国民には隠されてしまった。被害を受けた住民は、被害について話さないように、話すことはスパイ行為に等しいなどとされたのだ。
 三河地震の震源は三河湾から内陸にかけての場所だった。沖合の南海トラフ付近で起きた東南海地震よりもずっと陸地に近い震源だった。
 三河地震について詳細が知られるようになったのはごく最近だ。
 この地震では、東南海地震の倍もの死者が出た。2300人を超えたのではないかと言われている。
 なかでも悲惨だったのは、米軍機の空襲に備えて名古屋から学童の集団疎開が行われていた、その集団疎開先を襲った地震だったことだった。
 疎開先には、大広間がある寺が数多く利用されていた。寺は、柱が少なくて屋根が重い。地震には弱い建物なのである。
 このほか、ある集落では117戸あったうち107戸が全壊して77名が死亡し、別の集落では、391戸のうち310戸が全壊し88名が死亡した。
 地震が襲ったのが午前3時すぎという時間で、寝ている人が多かったことも不幸だった。
 日本の敗戦をはさんで、大きな地震がいくつも日本を襲った。1943年の鳥取地震(M7.2)、1944年の東南海地震、1945年の三河地震、1946年の南海地震(M8.0)である。この4つの地震は敗戦前後にかけての4年連続で千人を超える死者を出した。「四大地震」といわれている。
 いまの地震学では、この地震の連発には関連があることが分かっている。東南海地震と南海地震は巨大な海溝型地震で、鳥取地震はその前に西日本で頻発する内陸直下型地震のひとつだった。
 そして三河地震は巨大な海溝型地震に誘発されて陸側に震源が上がってきた地震だった。
 東日本大震災(2011年)の1ヶ月あとに福島県の内陸で起きたM7.0の地震も、昨年12月末に茨城県北部の内陸で起き、高萩市で震度6弱を記録したM6.3の地震もその仲間だ。
 しかし、敗戦前後で疲れ切ったところに大地震に襲われて不幸になった当時の人々は、なぜ地震が続発したか、分からなかったにちがいない。

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