[2019_12_02_03]広島・長崎の衝撃「ソ連も核を」 原爆開発の内幕 党機関紙元記者語る(東京新聞2019年12月2日)
 
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広島・長崎の衝撃「ソ連も核を」 原爆開発の内幕 党機関紙元記者語る

 米ソ首脳がマルタで冷戦終結を宣言して十二月三日で三十年。今年は東西の軍事対立の激化が決定的となった一九四九年のソ連の原爆開発成功から七十年にも当たる。核開発現場の取材を当時許された数少ないジャーナリストでソ連核開発史の専門家、ウラジーミル・グバレフ氏(81)が本紙に、原爆開発の内幕を明かすとともに、米ロ対立激化のなかで核兵器使用の危険性に警鐘を鳴らした。 (モスクワ・小柳悠志、写真も)
 「米国が現実に原爆を落とした衝撃はソ連指導部にとって計り知れなかった」
 グバレフ氏は、米国による四五年八月の広島、長崎への原爆投下が決定打となって、ソ連は核開発を加速化させたと強調した。スターリンら当時のソ連指導部は広島・長崎の惨状を自国の将来に重ね「明日はわが身」と恐怖し、核武装がソ連の生き残る道と考えた。長崎への原爆投下からわずか十日後には、原爆開発推進のための「特別委」を立ち上げたという。
 ソ連は第二次大戦中から英米の学者などを協力者に仕立てて米国の原爆開発計画「マンハッタン計画」の秘密情報を入手。原爆投下を受けて四五年秋までに原爆に使うウランを北米からソ連に移送するなど、スパイ活動を加速させた。
 ソ連はスターリンの腹心ベリヤが責任者となって急ピッチで開発計画を推進。四七年にはスターリンが中部チェリャビンスク近くで原爆製造の秘密都市「817」の建設を決定。ウラン、プルトニウムなどの単語を別の語で言い換えた機密文書が共有された。
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 817で働く研究者、作業員計千三百人は高額の給与が与えられたが、肉親の死に際しても実家に帰ることは許されなかった。「派遣された労働者は『モスクワに戻る帰りの飛行機はない』と冗談交じりに話していた」
 終戦直後の極端な物資不足にもかかわらずベリヤが、食器二十三トンや靴二千四百足を817に即座に送った記録もあるという。
 ソ連は四九年八月、長崎に投下されたプルトニウム型の原爆「RDS」の実験に成功。米国による核独占は崩れ、米ソは果てなき軍拡競争に向かった。
 一方でグバレフ氏は「核開発の代償は大きかった」と強調する。817で労働者の一部は作業中に被ばくして死亡。初の原爆実験では百三十頭の犬、四百匹余のウサギなどを縄で固定するなどして、死に至る様子を学者が分析した。
 今年夏行われた世論調査では、現在でもロシア人の52%は核戦争の勃発を懸念し、79%は「核戦争でほとんど誰も生き残れない」と回答している。
 グバレフ氏は元原子力技術者でもあり、専門を生かし六〇年代から核兵器と原発を取材してきた。「現在の米ロの首脳は核兵器を持つ重大さ、危険性への認識が薄い」とし「現在も冷戦は終わっていない。世界は核兵器使用の危険にさらされ続けている」と警告している。

<ウラジーミル・グバレフ氏> 1938年、ソ連ベラルーシ生まれ。核兵器や原発に関わる閉鎖都市の取材を許可された記者の一人で、ソ連共産党機関紙プラウダで科学部長も務めた。劇作家としても知られ、ソ連のチェルノブイリ原発事故を描いた芝居は日本でも上演された。モスクワ在住。

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