[2021_02_25_04]「5000万人避難まで想定した最悪の事態」菅直人元首相が振り返る3.11 #あれから私は(ヤフーニュース_オリジナル_特集2021年2月25日)
 
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「5000万人避難まで想定した最悪の事態」菅直人元首相が振り返る3.11 #あれから私は

 マグニチュード9.0の巨大地震とそれに伴う津波で、1万8000人あまりの死者・行方不明者を出した東日本大震災。それは未曽有の原発事故も引き起こすことになった。震災当時、総理大臣だったのが菅直人衆院議員(74)。水素爆発も起きるなか、「最悪のシナリオ」として5000万人が避難することも想定していたという。10年後のいま、元首相に振り返ってもらった。(ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「創造的復興」を掲げたが……

──東日本大震災から10年です。どんな感慨がありますか。
 「あの震災では、津波で多くの人が犠牲になり、避難を強いられ、また、福島第一原発の事故も起きました。地震や津波では物理的な被害で元の住まいに戻ることができず、原発事故では放射線の影響で戻れていません。多くの人が戻れていないことを申し訳なく感じています」

──菅さんは震災の翌月、諮問機関「東日本大震災復興構想会議」を立ち上げ、そこで「創造的復興」という言葉を掲げました。どんなイメージをもっていましたか。
 「あの会議では、哲学者の梅原猛さんや芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんら、さまざまな知見をもつかたから意見をいただきました。『創造的復興』という言葉を選んだのは、単に元の姿に戻すのではなく、以前にはなかった新事業などを立ち上げ、仕事も生活も成り立っていく──そんな新しい復興を生み出していければと考えました」


──被災地3県(岩手、宮城、福島)の現状を見ると、高さ10メートル以上の防潮堤や5メートル以上かさ上げした土地が各地にできた一方、3県の人口は今年1月現在で38万人以上減少しました。この現実はどう思われますか。
 「土地や道路、建物といったインフラはある程度予算が必要です。盛り土して津波に備えたり、そこに住宅を建てたりということは、資金を投ずれば可能です。ただ、そこに人々の生活が戻るには、雇用や産業が必要です。それがあって人は戻れるし、社会生活を営める。残念ながら、まだ多くの人が戻れるほど、雇用や産業が十分ではないということなのです。そうした復興は時間がかかります」

──「創造的復興」という理想と現実に乖離もあるように映ります。
 「インフラを整備するのは復興の第一歩です。ただし住宅や学校をつくっても、住民あるいは子どもが戻ってこなければ意味がない。仕事や生活の営みが戻るには産業が必要ですし、そこは次に進めるかどうか重要なところだと思います」

 2011年3月11日14時46分、三陸沖で起きた地震は、巨大な津波を発生させ、1万8000人あまりの命を奪っていった。津波は福島第一原子力発電所にも襲いかかった。沿岸に立つ1号機から4号機は津波で電源を喪失、核燃料を冷却させる手段をなくし、1号機から3号機は核燃料が溶け落ちる未曽有の事故に発展した。菅首相(当時)は、津波被害には自衛隊の10万人派遣で対応したが、原発事故については東京電力とともに事態を収拾しなければならなかった。

朝6時、吉田所長に会いに福島へ

──改めて聞きます。原発事故が起きた3月11日はどんな状況だったのでしょうか。
 「津波によって福島第一原発の電源が喪失したのは15時30分ごろ。17時42分に経済産業大臣からその報告を受けたときは背筋が寒くなりました。地震で鉄塔が倒れたうえ、非常用電源となるディーゼル発電機が津波をかぶって動かなくなった。原発で電源喪失とは、冷却ポンプが動かなくなり、炉心がメルトダウンを起こすことを意味します」

 「官邸に原発の状況を伝えに来たのは3人いました。東京電力の武黒一郎フェロー、原子力安全委員会の班目春樹委員長、そして原子力安全・保安院の寺坂信昭院長です。保安院は本来、原発の安全管理をするための資源エネルギー庁の一機関です。ところが、院長に状況を聞いても要領を得ない説明でした。おかしいと思って、どこの出身なのかを尋ねると『東大経済学部』だという。それでは、原発の技術も安全の中身もわかるはずないと思いました」

──11日夜には、1号機の内部でメルトダウン(炉心溶融)が始まっていました。
 「12日の午前1時ごろ、東電側から連絡がありました。1号機の格納容器の圧力が上がって壊れてしまう、だからベント(一時的に弁を開ける排気)をしたいと。ベントをすれば放射性物質が出てしまうけど、やらなければ格納容器が爆発すると。私からは『やってください』と許可を出しました。ところが、何時間待ってもベントをしたという報告が来ない。武黒氏に聞いても『分かりません』と。この非常事態に東電はどうなってるんだと思いました」

──福島第一原発と東電本店では24時間のテレビ会議がつながっていたはずですが。
 「その時点では、テレビ会議の存在は知りませんでした。ベントが遅れている理由も分からない。危機だけは刻一刻と迫ってくる。そこで、現場の責任者と直接話をするしかないと思い、12日の午前6時ごろ、首相官邸のヘリポートから福島第一原発に向かうことにしたのです」

──吉田昌郎所長に会いに行かれたわけですね。
 「はい。直接話したのは1時間弱でしたが、行ったかいがありました。はっきり、できるできないを言う人だったからです。吉田所長は『ベントは通常ならスイッチひとつで開くはずですが、電源喪失で弁が開かない』と言いました。『そのため弁の近くまで人が行くしかないが、放射線量が相当高い。作業員が数分刻みで交代しながらやらなければいけない』と。そのうえで、吉田所長は『最後は決死隊をつくってでもやります』と言ってくれた。私はこの人は腹が据わっているなと思い、『分かりました。頑張ってください』と福島を後にしたのです」
 「ところが、官邸に戻ってしばらく経った午後に秘書がすっ飛んできて、『総理、テレビを見てください!』と。見てみると、1号機の建屋が水素爆発を起こしていたのです」

──爆発の情報は上がっていなかったんですか。
 「テレビ放映は爆発から1時間以上も経っていました。私の目の前に東電の武黒フェローがいたのですが、爆発の情報は伝わっていない。あまりにひどいと思いました。すでに原子力災害対策特別措置法が機能し、通報義務が生じているなか、東電は政府に1号機の爆発まで上げてこなかったのです」

──なぜでしょうか。
 「分かりません。混乱もしていたでしょう。実際こんなこともありました。震災初日に電源が喪失した際、『電源車を送ってくれ』というので必死に手配して電源車を現地に送ったんです。『やっと到着した』という連絡が入りほっとしたら、『差し込み口が違う』と。要は、原発に接続するケーブルの差し込み口が電源車のそれと合っておらず、使えなかったのです。その後も『配電盤が海水でやられていてつなげない』という報告がありました。それくらい混乱した状況でした」

東京を含む半径250キロ避難というシナリオ

 福島第一原発では12日の1号機建屋の水素爆発に続き、13日には3号機がメルトダウン、14日には同じ3号機建屋で水素爆発が起きた。同日の23時には、2号機が危機にあった。格納容器の圧力が異常に上昇し、冷却水も入らない。「最悪の事態」を想定せざるを得なかった。

──15日朝5時30分ごろ、東京電力本店に乗り込みます。
 「この日の午前3時ごろ、首相官邸に経産大臣や官房長官が来ました。『東電が原発事故現場からの撤退を申し入れています。どうしますか』という話でした。清水正孝社長が経産大臣に何度も電話をかけてきて、そう言っていると。驚きました。そんなことは絶対にできません。もし東電が撤退し、原発を放置したら、避難地域も拡大し、日本は壊滅してしまいます」
 「とにかく、官邸に清水社長を呼んでくれと言うと、すぐにやってきました。その際、社長の話を聞く前に『撤退はありません』と告げました。すると、社長はあっさり『はい、分かりました』と受け入れました。拍子抜けしましたが、(これまで情報がなかなか来ない問題もあり)このままでは立ち行かない。政府と東電との統合対策本部をつくり、細野豪志首相補佐官を常駐させると言いました。それで朝5時30分に東電に行き、統合対策本部を設置しますという話をしたのです」

──東電本店に首相が乗り込んだこと、ヘリで福島に行ったことなど、菅さんの行動には批判もありました。
 「批判があったことは承知しています。しかし、あの時、私はどちらも行ってよかったと思っています。なぜなら、東電本店から的確な報告が来ていなかったからです。ベントをしなければ格納容器が爆発すると言いながら、なぜ遅れているかの説明がない。2号機、3号機などの状況も分からない。伝言の過程で重要なことが抜け落ちてしまっている可能性だってある。それなら短時間でも現地に行き、この目と耳で責任者から話を聞くほうが、いい判断ができる。そう考えて行動したことは間違いではなかったと思います」

──このころに「最悪の事態」も想定されていました。

 「事故から2週間後の3月25日に、原子力委員会の近藤駿介委員長に出してもらった『不測事態シナリオの素描』という文書があります。それによると、1号機から4号機の核燃料の放射性物質が放出されると、『強制移転や任意の避難区域は東京都まで含む半径250キロに及び、5000万人の避難が必要となる』というものでした」
 「じつを言えば、私自身は早い段階から『日本沈没』(小松左京原作)も連想していました。『日本沈没』は日本人全員が海外へ逃げねばならない話です。近藤委員長の不測事態シナリオはそれに近いものでした。そんなことになったらどうなるか……。とても口には出せない話でした」

完全な復興は100年以上かかるのでは

──震災後、福島第一原発では廃炉作業が進められています。どう見ていますか。
 「事故後、毎年1回は現地を視察しています。大きく変わったのは構内の風景です。広い敷地のほとんどが汚染水のタンクで埋まってしまった。一方、原発建屋は、外見は工事用の設備を除けばさほど大きな違いはありませんが、中身は様変わりしています。1号機から3号機は世界で初めてメルトダウンを通り越して、メルトスルーを起こしました。いま格納容器の底部には燃料デブリが堆積していますが、きわめて高線量で人が近寄ることができない状況です」

──2011年12月に東電が示した廃炉の中長期ロードマップでは、廃炉措置終了を30〜40年後と設定しました。実現可能でしょうか。
 「原子炉格納容器の内部にある燃料デブリを取り出すのも大変ですが、それを廃棄する場所だって簡単に決まらないでしょう。さらにそこから更地に戻して他の用途に使うとなると、数十年、いや100年以上を要するのではないかと思います」

──当初、どれくらいの時間や人手が必要だと考えましたか。
 「私は原発の専門家ではないので、最初の時点ではそれは判断できませんでした。ただ、その後、私は(1986年に事故を起こした)チェルノブイリ原発も何度か視察してきました。あそこは『石棺』と呼ばれるコンクリートで囲い込む対策をし、さらに2016年には鋼鉄製のシェルターで覆いました。それで100年間は放射性物質が外に出ないように見守るというのが現在の方針のようです。つまり、チェルノブイリという先行事例でもそんな状況なのです。福島第一原発でも同じくらいの時間がかかることは覚悟しなければなりません」

脱原発をもっと推進したかった

 菅氏は2011年8月に、再生可能エネルギー特別措置法を成立させた。これは太陽光、風力、水力、バイオマスなどによって発電した電気を全量固定価格で一定期間、電力会社が買い取ることを義務づけたものだ。このように脱原発へと大きく舵を切ったうえで、同年9月2日に総理の座を辞任した。

──脱原発に向けて急速に動きました。
 「私も震災前までは、原発の輸出を政策の柱にするなど原発には前向きでした。でも、あの事故を経験して、原発は安全ではないことがわかった。簡単に言えば、原発はなくすべきだと確信しました。ドイツの動きは早く、日本の状況を見て、2011年6月には『2022年原発ゼロ』を閣議決定しました。私がもう少し長く総理の座にあれば、もっとはっきりと原発ゼロへの道筋をつけられたと思います」

──震災から半年で辞任に追い込まれましたが、もっとやりたいことがあったわけですね。
 「はい、それはやはりエネルギーです。最近の例では、農地の上に太陽光パネルを設置するソーラーシェアリングを推したい。農業収入に加えて発電収入も得られれば、農家も収入が安定するし、電力も確保できる。農地400万ヘクタールで実施すれば、いまの日本の2倍の電力量を得ることができるという試算もあります。先に『創造的復興』という言葉を掲げましたが、私としては、こういう新しい技術や産業が、被災した地域で興隆すれば、復興も前進するんじゃないかと思うんです」

──昨年来、新型コロナウイルスの感染拡大が続いていますが、これも一つの大きな危機という見方もできます。菅義偉首相のコロナ対策についてはどう評価されていますか。
 「コロナと原発では性格は違いますが、危機管理という点では共通するものがあります。では、どうすべきか。コロナに関して言えば、総理大臣の仕事は、複数の信頼できる感染症の専門家から話をしっかり聞き、最悪の場合を想定し、それに至らないために行政的に何をすべきかを判断することです」
 「そもそも菅首相は『自助・共助・公助』を首相就任時に掲げていましたが、コロナは自助努力だけで防止できるのでしょうか? それができないから公助が頑張り、共助や自助をやりやすくさせるという順序じゃないでしょうか。そういう社会のあり方を提示できていないのは、私としては残念です」

菅直人(かん・なおと)
第94代総理大臣。1946年山口県生まれ。東京工業大学理学部卒業。1971年、弁理士資格取得。1980年、衆議院議員選挙で初当選。社会民主連合副代表、新党さきがけ政調会長を経て、1996年、第一次橋本龍太郎内閣で厚生大臣。同年、民主党を結成、共同代表に。2010年6月から2011年9月、総理大臣を務める。

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森健(もり・けん)
ジャーナリスト。1968年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、総合誌の専属記者などを経て独立。『「つなみ」の子どもたち 作文に書かれなかった物語』と『つなみ 被災地のこども80人の作文集』で2012年に第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『小倉昌男 祈りと経営』で2015年に第22回小学館ノンフィクション大賞、2017年に第48回大宅壮一ノンフィクション賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。
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