[2021_06_03_04]福島第一原発事故 直前の津波対策で事故を回避した電力会社があった(現代ビジネス2021年6月3日)
 
参照元
福島第一原発事故 直前の津波対策で事故を回避した電力会社があった

----------
 3つの原子炉が相次いでメルトダウンし、原子炉や格納容器を納める原子炉建屋が次々に爆発するという未曾有の原発事故を描いた 『福島第一原発事故の「真実」』 (小社刊)が大反響を呼んでいる。
 発売から2ヵ月あまりで、『朝日新聞』『毎日新聞』『東京新聞』『文藝春秋』『しんぶん赤旗』『公明新聞』など様々なメディアで取り上げられた。
 「今になって明らかになった事実には、驚く他ない。背筋が寒くなり、とにかくこれは、皆が事実に向き合って考えるところから出直す課題だと強く思う」(毎日新聞書評、JT生命誌研究館名誉館長 中村桂子氏)
 現代ビジネス、ブルーバックスWebでは、「2号機の危機」を描いた 同書6章 の完全公開に続いて、「津波対策の謎」について検証した17章を全5回の連載で完全公開する。実は巨大津波の襲来に備えるチャンスは複数あったことが取材からわかってきた。では、なぜ対策がなされなかったのか? そこには東電をはじめとした各電力会社、原子力安全・保安院などの国、そして自治体が、"不確定なリスク"に正面から向き合えなかった姿が浮かび上がってきた。

「津波対策は不可能だったのか」これまでの各回はこちらから
第1回 福島第一原発事故の不都合な真実「巨大津波は想定されていた!?」
第2回 福島第一原発事事故 動き始めた津波対策はなぜ実現しなかったのか?

----------

武藤副本部長の真意

 なぜ、武藤栄(むとう さかえ、当時「原子力・立地本部副本部長」)はそのような方針を示したのか。武藤は裁判の中で2008年7月31日の打ち合わせについてこのように証言している。
 「いろいろやり取りはありましたけれども、要すれば、計算結果があったが、そのきっかけになった評価の根拠は何だということになって、根拠は何回も議論したと思いますが、要は、根拠はわからないということでした。わからないのであれば、それは勉強しなきゃしょうがないだろうということで、研究しようじゃないかということになった」
 武藤が問題視したのは長期評価の根拠であった。武藤は、土木グループから、日本海溝沿いのどこでも大きな津波を伴う地震が起き得るとした長期評価は、何か新しい知見が出てきたわけではなく、その根拠がわからないと説明を受けたとして、
 「根拠がわからないことを出発点にしてやった計算も、それは大変難しい話なわけで、波源(津波の発生の源)を一体、置くのか置かないのか。置くとしても、一体何を置くのかということがよくわからない。ですから、何かそれをもって対策をやるんだというようなことが決められるような状況ではありませんでした」
 と当時の認識を述べている。
 また、現場が津波リスクへの備えを進める背景にあったバックチェック。保安院の審査に通るためには長期評価への対応も必要だと考えられていた。このバックチェックについて武藤は当時どう考えていたのか。裁判の中で武藤は次のように述べている。
 「バックチェックというのは手続きでありまして、(中略)我々は、発電所の安全性をどういうふうにして積みましていくのか、それをしっかり固めることが最初だと思いました」
 武藤はバックチェックとは関係なく、会社としてまずは津波のリスクについて根拠をもって議論していくべきだと考えていた。
 武藤は経営的な視点から以下のようなことも述べた。
 「経営として判断するという観点で言えば、(中略)機関決定をするときに、その根拠はどうだと、こう言われたときに、自分のところの担当者がわかりませんと言い、じゃあ、この計算の信頼性はどうなんだと言ったときに、いや計算の前提になっている波源の信頼性はよくわからないんですということをもって会社として機関決定をするということは、それは無理です」
 そして、武藤は、当時の自らの立場を強調して、こう主張した。副本部長には決定権限がなく、あくまで技術的な相談に乗る立場だったと。2008年6月、7月の打ち合わせへの認識を尋ねられたのに対して、「私は何か大きなことを決めたと言われるのは大変に心外」だと答えた。副本部長の自分には大きなことを決められるわけもなく、会社として決定するために今後どうすればいいかを議論したまでだ、ということだった。
 本来は本部長の武黒が決める立場にあったというのだ。武黒は柏崎刈羽原発の対応のため、不在にすることが多かった。結局、経営幹部の間でどのような意思疎通がされたのか、いまもわからないことが多い。そして、このときをタイミングとして、東京電力の社内は動きを止めた。現場が具体化しようとした津波対策の検討は立ち止まる。
 一方、経営側は津波への向き合い方や対策について「会社として」責任をもった判断を下さないままの状態が、「御前会議」以降続く結果となる。
 スマトラ島西方沖の地震による巨大津波で原発の津波への脆弱性に集まった関心。そして、バックチェックの仕組みの導入で電力会社が再び注目することになった長期評価。しかし、ここでも東京電力は結果的にこれらの機会を対策実施につなげることはできないままだった。

3つ目のチャンス「延宝房総沖地震」と日本原電

 東京電力の担当者から、日本原子力発電・東北電力などの担当者に送られたメール 。「推本即採用は時期尚早」と書かれ、東京電力として地震調査研究推進 本部の長期評価を取り入れることを事実上見送ったことを伝えている
 津波対策に対して消極的な姿勢に転じていく東京電力。ところが取材を進めるとこれに反した意外な取り組みが、ある電力会社で進んでいたことが明らかになってきた。この事実は取材班にとっても驚きだった。
 というのも東京電力は業界のリーディングカンパニーだ。業界のスタンダードは東京電力が決めるとも言われる。ほかの電力会社も東京電力の考えに気配りをする。それが電力業界、とくに原子力業界の不文律だ。
 ところが、だ。この東京電力とは異なる道を選んだ会社があった。日本原子力発電だ。茨城県と福井県に原発をもつ原子力の専業会社だ。
 日本原電は、新規技術を導入するパイオニアとしての役割を担い、東京電力を含め電力各社の出資で運営されている。日本初の商業原発である黒鉛炉の東海原発も日本原電が運営し、さらに商業原発では初めて廃炉作業に着手している。日本原電の社長は代々、東京電力と関西電力から送り込まれる。
 東京電力が津波対策に後ろ向きになる中、日本原電は独自に津波対策を進めていた。しがらみの多い原子力業界のなかで、敏捷な動きがとれない東京電力を尻目に、なぜ、日本原電は対策を打てたのだろうか。取材を進めていくと、その経緯が徐々に浮かび上がってきた。
 2008年8月6日、東京・神田にある本店で開かれた社内ミーティング。
 「こんな先延ばしでいいのか」
 「なんでこんな判断をするんだ」
 開発計画室長が発言した言葉は会議を気まずい雰囲気にしたという。室長の発言は東京電力の対応に対してのものだった。実はこのミーティング、東京電力の現場担当者から、各社の担当者に対して、長期評価にもとづく津波対策を事実上保留する方針が伝えられた直後に開かれたものだった。日本原電では、ちょうどその前日の8月5日に常務会が開かれ、津波対策の検討状況が報告されたばかりでもあった。
 日本原電ではどのような対策が取られていたのか。取材班は2008年5月に作成された日本原電の内部資料を入手した。ここでは、従来の想定の倍以上となる12.2メートル(日立港の海面を基準にした数値)という津波の高さが記されていた。
 その対策として、海沿いの敷地に防潮堤代わりとなる盛り土を造成し、この盛り土を越えた場合に備えて建屋の扉を防水にして浸水を防ぐことなども計画されていた。きわめて具体的な対応が進んでいたのだった。
 結果的に日本原電は、太平洋に面した茨城県東海村にある東海第二原発で重大な事故の危機を回避することになる。仮にだが、東海第二原発から大量の放射性物質が出ていたら、首都圏は大混乱に陥っただろう。東海第二原発は首都圏唯一の原発で、東京に最も近い。業界の盟主である東京電力ができなかった「英断」が、なぜ日本原電にできたのか。取材班は鍵を握る人物にたどり着いた。

茨城県と日本原電

 茨城県東海村。JRの駅を降りると、ショッピングセンターや住宅が建ち並ぶ街が見えてくるが、海に向かって伸びる道路の名前は「原電通り」「原研通り」などと、原子力に由来したものばかり。日本で初めて原発が稼働し、数多くの原子力関連施設が立地するこの村は「原子力発祥の地」とも呼ばれる。
 この地に立地する日本原電の東海第二原発で、震災前から津波対策が行われた。取材班は、2018年10月、対策に乗り出す理由の一つをつくった人物に出会った。茨城県の原子力安全対策課で課長などを務めた山田広次(やまだ こうじ・67歳)だ。東日本大震災の前に、日本原電に対して津波対策を要請し、日本原電はこれを踏まえて対策を実施していたのだった。
 2007年3月。茨城県は津波浸水想定を作成していた。2004年に起きたインドネシア・スマトラ島西方沖の巨大地震を受けて国土交通省の委員会が津波対策を早急に進める必要がある旨をまとめ、自治体ごとに津波浸水想定を作成するよう求めていたことなどが背景にあった。担当の茨城県河川課は、専門家による委員会を立ち上げ、2005年から津波浸水想定を作成し始める。
 県の津波想定に関する委員会で委員長を務めた茨城大学学長の三村信男(みむら のぶお・69歳)は、取材に対して歴史的に考えられる津波すべてを想定しなければならないと考えていたと話した。それまで茨城県沿岸では1960年のチリ地震津波での被害などは知られていたが36人の死者を出したとされる1677年の「延宝房総沖地震」による津波被害は文献の記載のみで、具体的な震源や規模につながる資料はなかったという。
 そこで県の委員会は、独自に文献や現地調査、シミュレーションなどを積み重ねた。そして国が知見の不確かさから想定を示していなかった延宝房総沖地震をもとに津波評価をまとめることになる。三村は「科学的に予想し得る最も危険な想定をして対策を打たなければ、県民の命は守れないと考えた」と振り返る。
 地元紙の記事で県の津波浸水想定を知った山田は、河川課から直ちに取り寄せた。そこには東海第二原発に近い2ヵ所の津波の高さが記されていた。1ヵ所の久慈川河口は7.6m。もう1ヵ所の新川河口は、6.6mだった。この数字が、山田の中の不安を強める。
 「海水ポンプがやられてしまう可能性がある」
 原子炉の冷却に不可欠な装置である海水ポンプが、津波をかぶれば壊れることは知っていた。山田は、日本原電の担当者を呼ぶ。津波浸水想定のデータをもとに、東海第二原発での津波の高さを出してほしいと伝えたのだ。
 日本原電はすぐに計算を行ったという。その結果は、やはり想定より高いというものだった。数値は海水ポンプ近くで「5.72メートル」。当時、東海第二原発で推定されていた津波は4.86メートルだったので、それを0.86メートル超える。そして、高さ4.9メートルの壁に囲われた海水ポンプも浸水することを意味した。山田が「すぐに対応すべきだ」と伝えると、日本原電の担当者は「そうですね」と返事をしたという。
 山田は何十年も茨城県で原子力の安全対策に向き合ってきた。かつて、東海第二原発の近くにあった別の施設に、使用済み核燃料を搬入する際、その作業に本当に問題がないか確認するため、立ち会ってきた。一職員の山田が現場に行きたいと言えば、上司はそれを許したという。使用済み核燃料を積んだ船が港に着く様子を幾度も見てきた。
 そして、その際、山田の目には、港近くにある東海第二原発の海水ポンプが映っていた。海水ポンプが置かれている場所、その大きさ、海面からの高さ。津波浸水想定を見て、何度も通った現場の光景が、頭の中にすぐに思い浮かんでいた。
 そして、過去の災害が甚大な被害をもたらしたことが山田の心に刻み込まれていたことが大きかった。甚大な被害をもたらした1995年の阪神・淡路大震災。自然災害は常に人間の常識を超えてくる。この震災をきっかけに、山田は、これまでの想定を大きく上回る自然災害が、茨城県内の原子力関連施設を襲うことを否定できないのではないかとの思いを強くしていた。
 数万円もする活断層の専門書を課で購入してもらうなど、過去の歴史地震や津波に関する資料をひたすらに調べていった。そして、津波浸水想定を見た瞬間、山田は延宝房総沖地震による被害の記録を思い出した。
 足繁く通った現場、過去の津波被害。これらが、日本原電への要請につながっていく。
 山田は大学で原子炉を扱った研究を行っていたことから原子力関連施設が多くある茨城県に入庁した。県庁ではほとんどが原子力安全対策課。多くの事故やトラブルを経験することになる。
 その中でも山田に衝撃を与えた体験がある。1999年、東海村の燃料加工工場でおきた臨界事故だ。作業員2人が大量の被ばくで亡くなった。国内で初めて原子力事故による避難要請が出され、住民など600人以上が被ばくするなどした。当時、国内では過去最悪の原子力事故だった。山田は発生から1時間余りで現場に着き、県庁に戻ったあとも情報収集に当たった。山田は被ばくもした。
 山田の中で、原子力に対する意識が大きく変わっていった。「何かあったら県民の安全を守れない」起きるかどうかわからない。しかし、備えておかないと起きたときに県民を守れない。原子力に関わることは不確実でもリスクに備えておくべきだとの考えを強く持つようになっていった。
 しかし、実際に電力会社の対策につなげるのは簡単ではなかった。自治体と電力事業者の間の取り決めの一つに「安全協定」というものがある。事故時の対応などを約束したものだ。しかしこれは法的根拠を持たない紳士協定だ。この協定には「起きるかもしれないリスク」を根拠に正式な対策の要請を認める取り決めはない。
 対策実施には巨額の費用だけではなく、県庁内、そして住民、国にも「なぜその対策を行うのか」という対外的な説明が必要となる。「根拠・エビデンス」が必要だった。残念ながら津波浸水想定は確たる証拠にはならず、これでは茨城県からの正式な要請はできないと考えた。
 結局、山田はあくまでも自らの判断で「口頭要請」を行うことになった。当時について山田は、こうきっぱりと答えた。
 「組織として動いたわけではない。別の見方をすれば、スタンドプレーという評価になるかもしれない。ただ、茨城県で長いこと原子力に関わってきた中で、いい加減なことはやりたくない。それは許されないという気持ちはあった」

直前の津波対策で事故を回避した日本原電

 2011年3月11日の東日本大震災、東海第二原発は地震の揺れを感知し自動停止した。東海村で震度6弱の揺れを観測し、原発ではタービンの軸が大きく震動したため、約2分後に原子炉が止まったのだ。
 外部から電源が送られず、3台の非常用ディーゼル発電機が起動し、原子炉の冷却が続けられていった。しかし、地震発生から約4時間半後のことであった。非常用発電機を冷却して動かすための海水ポンプ1台が、津波によって水没する。残る2台の海水ポンプを使って2台の非常用発電機を動かし続けることとなった。
 実は、これは山田からの非公式とも言える要望に日本原電が応えた結果であった。日本原電は、東海第二原発の海の近くにあった3台の海水ポンプまわりの壁の高さを6.1メートルに上げる対策に水面下で乗り出していた。東日本大震災では約5.4メートルの津波が押し寄せた。対策を取る前の海水ポンプの壁の高さを50センチ上回るものだった。対策を取っていなければ3台のポンプが浸水し、壊れることを意味する。
 震災当時、一部の排水溝の穴を塞ぐ工事が終わっていなかったため、1台が水没することになるが、壁の工事は完了しており、2台のポンプは守られた。東海第二原発の原子炉は、時間をかけて冷却され、重大な事故に至ることはなかった。
 山田は、2011年3月に退職する予定だった。しかし、退職目前の3月11日に東日本大震災、原発事故が起きる。避難してきた多くの人たちの避難先や避難経路の確保、放射線量を測定するモニタリングに従事した後、翌4月15日に退職した。作業着のまま辞令を受け、一人県庁をあとにした。山田は、原子力を扱うのであれば、常にリスクと向き合い続けなければならないと語った。
 「原発や原子力施設では、事故やトラブルが幾度となく繰り返されてきた。福島第一原発の事故から数年が経つが、電力事業者・国・地元自治体は、緊張感を持ち続けて、リスクはどこにあるのか調べ議論し続けなければ、原子力はいつ再び、私たちの生活を脅かすかわからない」

日本原電の功

 自治体の要望を踏まえて東海第二原発の津波対策をいち早く進めた日本原電。社内で対策を進めることに異論は出なかったのだろうか。東京電力のようなことはなぜ起こらなかったのだろうか。当時、対策を検討した関係者から話を聞くことができた。
 「長期評価などをもとに、津波が来るだろうというリスクは社内で共有されていたと思う。まずはできる対策を取っていき、大規模な工事は今後、順次やっていけばよいという考えだった」
 実は、日本原電では、茨城県の津波浸水想定にもとづく想定を大きく上回る、あの長期評価にもとづいた想定で対策を講じていたのだ。最大の津波の高さの想定は従来の倍の12.2メートルにもなる。そして、少しずつできるところから対策が進められていったという。
 複数の関係者によると、日本原電の本店で、津波対策を中心となって進めたのは「耐震タスク」と呼ばれるチームだった。「耐震タスク」は、2006年に国がバックチェックを指示したことを受けて地震や津波の新知見に対応するため、社内のさまざまなグループから代表者が集まる組織横断的な部隊だった。各グループの情報は耐震タスクに集約され、対応が検討される。結果を各グループに持ち帰っては、共有・検討を繰り返す中でさまざまなアイディアが出ていたという。
 特に津波対策で中心となったのは、事故対策などを担当する発電管理室と、土木や建設などを担当する開発計画室という部署だった。日本原電は原子力専業の会社であり、他の電力会社と比べて規模が小さかったため、担当者レベルで密に情報交換ができたと振り返った。
 こうした素地があった日本原電。茨城県からの非公式な要望にも迅速に応えることができる準備が整っていたと言える。その結果がすぐに東海第二原発の津波対策につながっていく。
 一般的に原発では、敷地内に一切水が入らない「ドライサイト」が想定されている。津波の流入を防ぐのであれば、防潮堤などを建設することが考えられるが、当時、日本原電では、大がかりな工事を行うには巨額の費用と長期間の工期が必要となるため、いつ実行できるか不透明だったという。
 このため、耐震タスクは、各グループが連携して、敷地に水が入ってきたとしても、まずは少しでも機器や設備を守る対策を進めようと、防潮堤ではなく、短期間で安価にできる盛り土と、建屋の防水という複合的な対策案をまとめていたのだ。2009年にこれらの対策は講じられた。2011年の東日本大震災では、津波はそこまでの位置に達しなかったが、対策は間に合う形となっていた。
 日本原電は、扉の水密化といった津波対策を太平洋側だけでなく、日本海側の福井県敦賀市にある原発でも実施していたことも取材でわかった。東京電力をはじめ電力各社が巨額な費用を前提として躊躇した津波対策。時期的には、土木学会に研究を依頼するとして東京電力の動きが止まった2008年に、着実に対策が進められている。柔軟で的確にリスクに向き合うひとつの答えを日本原電は示したといえる。
 私たちはこの事例を踏まえて電力各社に東日本大震災前の津波対策について取材した。すると、静岡県御前崎市にある中部電力の浜岡原発でも対策に着手していた。想定を超える巨大津波で地下トンネルから海水が敷地内に入り込む可能性を考え、震災の前に防水性をより高めた扉の設置を進めていた。また、配管の隙間を塞いで海水の流入を防ぐ工事も行っていた。さらに高さ10メートル以上の防潮堤の設計も始めていたのだ。
 しかし、こうした前向きな対策の事例が東京電力をはじめ業界全体に波及することはなかった。いったいなぜなのか。

広がらなかった取り組み

 その理由を探して「英断」を下した日本原電にさらに取材を重ねた。すると見えてきたのは電力業界の「東京電力を中心に各社足並みを揃える」という長年の“物事の進め方”だった。日本原電は、自らが行っていた津波対策を対外的に気づかれないようにしていたことがわかってきた。
 日本原電は、東日本大震災の前、東海第二原発で津波対策を行ったことは公表せず、対策の根拠を曖昧にすることに苦心をしていたのだ。長期評価に対応するべく種々の対策を練り上げていたにもかかわらず、その事実を隠す形となった。
 取材班はそれを示す資料を入手した。当時、日本原電が保安院に対して、津波対策工事の内容を説明するために作成した想定問答集だ。そこには驚くべき記述があった。日本原電がもとにした長期評価によれば、建屋には津波は「遡上する」ことになる。しかし、問答集には長期評価の文字はなく「遡上しない」と説明するようにと記されていた。また対策工事は、万が一のための自主的なものに過ぎないとしていた。
 なぜこうした対応をとったのか。その背景に何があるのかを日本原電の元幹部に取材をした。元幹部はそこには原子力業界の長年の慣習があると語った。
 「電力各社は、横並びというか、他社のことも考えながら物事を進めるのが原則となっていて、特にリーディングカンパニーの東京電力などに配慮をしながら進めるという習慣が身についている。対策をやってしまえば、たちまち他社に波及することになり、気をつけなければならない」と。
 そしてこうしたやり方は電力事業という公共性の高い事業を全国で進めるにあたって電力各社の連携が不可欠なことから派生していると付した。
 日本原電は、震災後、茨城県の山田からの求めに応じ、津波対策を取っていたことは認めている。しかし、それ以外はメディアに発表していない。電力各社は原発の安全対策に関わる案件は比較的丁寧に発表することが多いにもかかわらず、だ。
 取材班は、日本原電に見解を求めた。返ってきたのは「回答は差し控えたい」というものだった。すでに東日本大震災から10年がたとうとしている。そんな今でも、東海第二原発で行われた「英断」を明らかにしたくないものなのか。
 対策を進めていた中部電力もメディアに発表していなかった。理由について聞くと「一部の津波対策が社として意思決定されていなかったため、公表していなかった」との回答が寄せられた。東京電力の存在や各社との横並びが理由ではないとした。
 いずれにしても見えてきた事実は、津波へのさらなる備えが必要だと考えて扉の水密化など具体的な対策を検討し着手していた会社があったにもかかわらず、こうした姿勢や対策が業界全体には波及しなかったということだ。
 また、メディアへの発表もなかったことから、原発を巡る津波のリスクを社会全体として共有する機会も持てなかった。もしこうした取り組みが広く国民に知らされていたら、東京電力を含めた電力各社の姿勢や保安院の取り組みも、少し違ったものになっていたのではないだろうか。そう思わざるを得ない取材結果だった。
 *記事中の人名については敬称を略しました。年齢、肩書き等は取材時点のものです。

 「津波対策は不可能だったのか」第4回は、6月4日公開です
KEY_WORD:TOUKAI_GEN2_:HIGASHINIHON_:HAMAOKA_:FUKU1_:ENBOU_BOUSOUOKI_:HANSHIN_:TOUKAI_GEN2_:ENBOU_BOUSOUOKI_:KASHIWA_:SUMATORA_:TIRIJISIHIN_:HANSHIN_:TSUNAMI_: