[2019_02_13_05]1981年レーガン政権発足時 日本の核再処理促す 米有力者、秘密文書を作成 背景に原発推進路線 米業界も規制強化不満(東奥日報2019年2月13日)
 
 六ヶ所村での使用済み核燃料の再処理を了承したレーガン米政権発足時の1981年、日本の電力会社のためにロビー活動をしていた米有力者が、日本の再処理とプルトニウム利用を後押しする政策文書をひそかに作成していたことが12日、分かった。
 70年代のカーター政権は核拡散の懸念から、ブルトニウム利用に反対したが、レーガン政権は88年発効の日米原子力協定で再処理を容認。日本の原子力業界に近い米ロビイストが早くから暗躍する形で、米国の政策転換を誘導していた構図が浮かび上がった。
 文書を入手した米研究機関「国家安全保障公文書館」のビル・バー上級研究員が公開前に、共同通信にコピーを提供した。問題の人物はレーガン政権で国務次官補を務めたジェームズ・マロン氏。当時の米紙によると、同氏は70年代末にロビー活動を行い、「次官補就任前の議会公聴会では日本や台湾の原子力業界との癒着が問題視された。
 文書は80年11月の大統領選後、政権移行チームにいたマロン氏が中心となり、81年1月の新政権発足に向け用意したメモ「レーガン政権の不拡散政策のための勧告」。後のエネルギー副長官も起草に関与しており、当時の国務省当局者は対日政策立案の「基盤」を構成したとの見方を示した。
 メモは「原子力供給国としての信頼回復」へ向け、対日支援の必要性に触れた上で「核拡散防止条約(NPT)を順守し、拡散上のリスクがない国、例えば日本でのプルトニウム利用」を認めるベきだと主張。日本の核燃料サイクルに理解を示し、核査察を前提に日本の再処理に「包括的同意」を与えるよう提言した。
 米公文書によると、レーガン大統領はこの半年後、再処理を巡る米国の政策態度を見直すよう国務省に指示。82年6月には日本の再処理事業に「事前同意」を与える新方針と、新たな日米原子力設定を締結する方向性を打ち出した。現協定下で日本は再処理を続け、約47トンのプルトニウムを保有するに至った。

 核燃料サイクルと米国

 天然資源に乏しい日本は1950年代から原子力開発に乗り出し、使用済み核燃料を再処理して抽出したプルトニウムを再利用する核燃料サイクルを推進。米国は日本に原発や核燃料を輸出してきた経緯があり、米国産燃料の再処理には米韓の規制権が及んだ。プルトニウムは核爆弾原料にもなるため、70年代後半のカーター政権は核不拡散を重視し、商業用の再処理やプルトニウムの民生利用に反対。日本への規制強化にも動いたが、レーガン政権は日米原子力協定を改定し、六ヶ所村での再処理事業に包括的事前同意を与えた。

 解説

 日本の核燃料サイクルを支持し、使用済み核燃料の再処理を認める日米原子力協定を成立させたレーガン政権の誕生時に、日本の原子力業界と気脈を通じた米ロビイストが日本のプルトニウム利用を容認する文書をひそかに策定していた。背景にあったのは、米国での原発事故後も「信頼される原子力供給国」の地位堅持を狙った米業界と同政権の原発推進路線だ。
 1970年代後半、民主党のカーター政権は、民生技術を利用した74年のインドの核実験に衝撃を覚え、プルトニウムを抽出する再処理への規制を強化。影響は日本にも及び、茨城県東海村の再処理施設の操業に一時、赤信号がともった。
 日米交渉の末、条件付きの操業が認められたが、日本の政府や原子力業界はこの動きを国難と受け止め、81年の共和党のレーガン政権誕生に合わせ巻き返しを図った。
 79年にスリーマイルアイランド原発事故を経験した米原子力業界も「日本との間に論争を招いたカータ一政権の原子力政策に強い不満を抱いていたし(元国務省当局者のフレッド・マクゴールドリック氏)という。
 米政府で原子力政策を担当したマクゴールドリック氏は、マロン氏のまとめた文書がレーガン政権のその後の対日原子力政策を形成する「基盤」の一つになったと解説した。(共同通信編集委員 太田昌克)
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