【記事17167】震災10年 守れ いのちを 第5部 復興とは (9)研究(神戸新聞NEXT2005年1月11日)
 
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震災10年 守れ いのちを 第5部 復興とは (9)研究

 一九八九年、ロマプリエタ地震。九四年、ノースリッジ地震。高速道路の高架が倒れる地震が米国で相次いだ。
 「日本の耐震技術は世界最高」
 「あんな倒れ方はしない」
 当時、日本の学者はそう繰り返し発言した。東京大学教授で、耐震防災工学を専門としていた片山恒雄・防災科学技術研究所(茨城県つくば市)理事長も、その一人だった。
 阪神・淡路大震災は、その過信を完全に砕いた。
 「長年の研究がすべて否定されたように思った」。あの朝、日米都市防災会議に出席するため、大阪にいた。翌日被災地に入り、衝撃を受けた。「私は、耐震の最先端を見ていただけだった。弱い構造物が数多く残っていることを、想像すらしていなかった」
 学者は新しいテーマを追いたがる、という。「私自身、構造物を耐震化する時代は終わり、ライフラインなどのシステムの防災が大切と考え始めていた。耐震の研究者も、超高層に集中し、木造建築には冷たい目を向けていた」。苦い顔で言った。
 結局、学者の見ようとしなかったものが人命を奪ったことになる。
 「そう言えるだろう。震災後、研究を続けてゆくことがつらかった」
 震災翌年、研究職を離れ、理事長の職に就いた。著書などで学者のあり方を問い続け、途上国の防災研究者の育成にもかかわる。
 「阪神・淡路以前、生活や経済を含めた『復興』は、防災の世界では取り上げられることはなかった」
 林春男・京都大学防災研究所教授(防災心理学)は、そう指摘する。
 その上で、復興過程での学者の役割を三つ挙げる。「科学的な記録を残す」「社会に対しアドバイスする」「減災のためのシステムをつくる」だ。
 私たちが最も知りたいのは、社会とのかかわり方だった。
 林教授は、阪神・淡路の直後から心のケアの必要性を訴えてきた。新潟県中越地震では、被害のデータベース化などを支援した。
 「災害前の研究成果を、素早く吐き出すことが大切。特に最初の二週間は、被災者にとって、今後の大きな方向性が決まる大切な時期」と語る。
 社会に向かって発信しない学者をどう思うか聞いた。「それは学者の個性。三つの役割すべてを一人で担う必要はない」との答えだった。
 室崎益輝・消防研究所(東京)理事長は「学問の世界では、論文を書くのが一流、マスコミに発言するのは三流という考えが今もある」という。「被災者の中に入って語り合い、まちづくりを進めようと本気で考えている学者はほとんどいないのでは」
 学者と市民の距離の遠さを思う。
 七六年、東京大学助手で、当時三十二歳だった石橋克彦・神戸大学都市安全研究センター教授が発表した「駿河湾地震説」。東海地震の主な震源域を駿河湾とするこの学説は、日本の防災に大きなインパクトを与えた。
 「社会を動かそうと明確に思った」と石橋教授。学界やマスコミへ積極的に発言した。やがて政治が動いた。七八年、東海地方での予知防災体制を定めた特別措置法が成立した。
 学説だけでは、こうした結果は生まれなかったかもしれない。マスコミが取り上げ、世論が動いた。伊豆大島近海地震(七八年)も、法の成立を後押しした。
 「学者は沈黙してはいけない」。地震で原子力発電所の事故が発生し、被害が増幅する「原発震災」についても、警鐘を鳴らし続ける。
 地震学や防災学は人命に直結する。危険はどこに潜んでいるのか。私たちは何をすべきか。東海、東南海、南海地震などが迫る今、答えを求める市民の期待はかつてなく大きい。

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