【記事62730】警告! 次の震災は国民の半数が被災者になる(東洋経済オンライン2017年11月22日)
 
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警告! 次の震災は国民の半数が被災者になる

「こんなズブズブの土地に本社を建てちゃいけませんね」「家具止めもしないなんて、おバカさんです」――。こうした口調でズバズバと防災の不備を突く、名物教授をご存じだろうか。名古屋大学の福和伸夫教授である。
偽悪的にも思えるその言動は、タテマエと人任せがはびこる「防災大国・日本」に対する憂慮の裏返しだ。人を動かすには、都合が悪くてもホンネを語り、「わがこと」として受け止めてもらわなければならない。
そんな信念を持って走り回る福和教授が、初の単著『次の震災について本当のことを話してみよう。』を出版した。本人から多く取材する機会を持ち、今回の本の編集にも携わった筆者が、その「ホンネ」のメッセージの意味を読み解く。

■「防災しない」と容赦なくピシャリ

 名大の減災連携研究センター長、日本地震工学会会長、中央防災会議委員……。そんな肩書を頼って、安易に福和教授を講演会などに呼ぶと、主催者は痛い目に遭う。
 「こんな危ないところで講演させるなんて、ひどい人たちですね」
 講演会はたいてい、こんな「主催者いじり」から始まる。福和教授は講演会場へ早めに着いて、建物の定礎に彫り込んである建築年代をチェック。耐震性が低い1981年以前の旧建築基準法の設計で建てられていないかどうかを確認している。
 さらに、基礎周りの地盤沈下やひびをデジカメで撮影。講師の控え室に通され、家具固定されていないロッカーがあったらまたパチリ。ついでに事務室なども撮り、パソコンに取り込んでおく。そして講演が始まると、真っ先にその「具合の悪いところ」をプロジェクターで大写しにするのだ。何も知らなかった主催者は、赤っ恥をかくことになる。
 相手が国の防災官庁であろうが、大企業であろうが、容赦ない。ただし居合わせた聴衆には、これが大受けだ。
 「人に嫌われる言いにくいことを言う。それをできるだけ茶目っ気たっぷりに。最近は、なかなかそれができにくい社会になっている。私もプレッシャーは多々感じていて、いろいろな人たちから『そんなことを言ってくれるな』としかられることも。そのうち刺されるかなと心配もするが、『言ってくれてありがとう』と感謝されることも多くある。だから私は、元気なうちはちょっと嫌われる『おせっかい役』をできるかぎりやっていこうと思う」――。本書には、こんな過激な「福和節」があふれている。
 3年ほど前から、福和教授は「ホンネの会」なる集まりを名古屋で主宰し始めた。最初は単なる飲み会だったが、メンバーは福和教授と旧知の製造業、電力会社、ガス会社の各防災担当者。酒が進むうちに、1人が「実は……」と自社の防災対策の不安を語りだしたら、それを聞いた別の1人が「実はうちも……」と打ち明けたのがきっかけだったそうだ。

■平時は依存し合っているのに、防災は自己完結できる? 

 「電気が止まっても、ガスで発電できるから大丈夫だよね」と製造業が言えば、「いや、電気がないとガスは造れない」とガスの担当者が言う。しかし電力会社は「そもそも水がないと全部ダメだ」と白状した。つまり互いが依存し合ったり、外部に頼ったりしているにもかかわらず、防災は自分のところだけでやってきたことを明かしたのだ。 福和教授はこのやり取りを聞いて「産業界の震災対策はダメなところがいっぱいだ」「でも正直には言いにくいんだ」と感づいたという。そこで企業のほかに自治体の担当者らも加えて、オフレコで「ホンネ」を言い合う会を設定。「自分の組織の悪いところを正直に話す」「ウソはつかない。答えにくいことは答えなくていい」などのルールを決め、福和教授の司会で出席者が赤裸々に語り始める。
 ひとしきり話し合うと、「次は部品メーカーのことを聞きたい」「石油会社の様子を聞きたい」「道路や水、通信や物流を知っている人もいないとマズイよね」などの声が上がり、どんどん人が呼び込まれるようになる。現在は70以上の企業や団体の関係者が集まる会に発展している。
 マスコミ関係者は入れないため、その実態はほとんど表には出ていないのだが、会の成果の一部は、すでに形になっているそうだ。
 危機感を共有した会社同士が協定を結んだり、設備を改修したりする動きが出始めた。名古屋大学自体も、防災面の産官学連携をさらに強化する「あいち・なごや強靱化共創センター」という組織を今年6月に新設。企業のBCP(事業継続計画)作成支援や、災害対応に当たる自治体職員の研修などを大学で引き受けることになった。
 「ホンネの会で議論したことを、社会に公式に発信し、実践につなげていく体制」の1つなのだという。
 福和教授は1981年に名古屋大学大学院を修了後、大手ゼネコンに入社。建物と地盤の関係を追究する耐震工学を中心に、原子力や宇宙建築などの先端研究にも携わっていた。
 つねに強気で自信満々に歩んできたように思えるが、1995年の阪神・淡路大震災では建築の「安全神話の崩壊」を目の当たりに。当時は母校の建築学科に研究者として戻っていたが、神戸の強烈な教訓を胸に刻んで「防災の専門家」となることを決意する。
 以来、高層ビルの長周期地震動の対策を強く訴えれば、過去の災害と「地名」との関係なども調査。災害と関連する歴史への造詣は、文系の研究者並みに深い。
 しかし、東日本大震災の大津波と原発事故は、やはり「想定外」だった。特に原発についてはゼネコン時代に新潟県の柏崎刈羽原発の耐震設計にかかわった経験がありながら、福島の事故が水素爆発にまで至ることは、まったく想像ができていなかったという。自らも“専門性のわな”にはまり、視野が狭まっていたことを認め、反省と後悔の念も隠さない。
 「3・11」当日は東京に出張中で、都心の大混乱をかいくぐって翌朝に名古屋へ。殺到するマスコミ取材に対応しつつ、正確な情報発信の場が必要だと学内の1室を整備した。これがのちに名大の防災拠点「減災館」建設の動きにつながっていく。
 当時の橋下徹・大阪府知事に招かれて参加した咲洲(さきしま)庁舎への本庁移転をめぐる専門家会議では、軟弱地盤に立つ高層建築の怖さをひたすら説いた。大学で開発した学習教材「ぶるる」を持ち込んで共振現象を説明し、最後は「檄(げき)文」のような文書を会議で配布し、橋下知事に庁舎移転を思いとどまらせた。

■国民の2人に1人が被災者になる

 福和教授の頭には、大正時代に関東大震災の発生を警告して「地震の神様」とも呼ばれた地震学者、今村明恒(あきつね)の存在がある。今村は昭和に入ると南海トラフ地震の発生も警戒し、私財を投げ打って和歌山県に地震研究所を創設、関係自治体の長に自ら手紙を差し出して危険性を訴えた。
 しかし戦中は軍に研究所の施設を接収され、観測のできなかった1944年に東南海地震が、続く1946年には南海地震が起こってしまう。今村は災害を減らせなかったことを深く悔やみながら、その約1年後に77歳で昇天した。
 「今村は地震学という自分の専門にとどまらず、むしろ防災的視点で防災教育や耐震化、不燃化などについて精力的な活動をした。有名な『稲むらの火』を教科書に掲載することにも貢献したとされる。こうした『言いっ放し』で終わらない、行動する学者が今どれだけいるか」と福和教授は各学界にも、自身にも問い掛ける。
 2012年から2013年にかけて委員として携わった内閣府中央防災会議の「南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ」では、来たるべき南海トラフ地震によって死者32万3000人、国民の2人に1人が被災者になるという最悪の想定を描き出した。
 もう想定外とは呼ばせない――。読者が1人でも多く防災に対する意識を変え、1つでも多くの行動をしてほしい。それが本書に込められた福和教授の最大の「ホンネ」なのだ。

関口威人 :ジャーナリスト

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