【記事38165】「原子力ムラ」を生きた東電・吉田昌郎の功罪_その生涯を追って見えてきたもの<前編>_黒木亮(東洋経済オンライン2015年8月9日)
 
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「原子力ムラ」を生きた東電・吉田昌郎の功罪_その生涯を追って見えてきたもの<前編>_黒木亮

 福島第一原子力発電所の元所長・故吉田昌郎氏を描く『ザ・原発所長』を執筆するため、2年間の取材を行った。取材を通して見えたのは、社畜でも英雄でもなく、原子力ムラと東京電力の論理の中で忠実に生き、その問題点と矛盾を一身に背負って逝った、1人のサラリーマンの姿だ。日本における原子力発電の歴史を重ねることで浮かび上がってきた等身大の吉田氏とは?前後編で吉田氏の生涯を振り返る。
(中略)
 吉田氏が小学校に入学したのは1961(昭和36)年だった。その前年に日本原子力発電(株)が、日本初の商業用原発・東海発電所1号機の建設に着工し、1966年に営業運転を開始した。小学校卒業2カ月前の1967年1月には、東京電力福島原発(のちの福島第一原発)1号機の建設が着工された。敷地は海から約30mの高さに切り立った荒漠たる原野で、東電の社員たちは、マムシやシマヘビ退治から始めた。
 世論の反対を押し切って川内原発が再稼働され、東電の勝俣元会長ら3人が津波対策を怠った嫌疑で強制起訴されることになった。しかし、根本的な問題は何も解決していない。『ザ・原発所長』で、故・吉田昌郎福島第一原発所長の生涯と半世紀にわたる日本の原発発展史を描いて見えたのは、規制当局(政府・経産省)の呆れるほどの怠慢と、電力会社に長年にわたって染み付いた利益最優先の企業風土だった 。
(中略)
 1979(昭和54)年4月、吉田氏は東京電力に入社した。年初にイラン革命が勃発し、第二次石油危機が起き、入社直前には米国のスリーマイル島原発事故が起きた。
 最初に配属されたのは福島第二原発2号機の建設事務所だった。上司の副長(一番下の管理職)は、3・11の危機の際に官邸から海水注入中止の指示を出し、今般、津波対策を怠った業務上過失致死傷容疑で強制起訴されることになった武黒一郎氏(元副社長)だった。
 当時、福島第一原発は6号機まで営業運転を開始していたが、トラブルの連続だった。GEは「我々の軽水炉は完全に実証された原子炉」と豪語し、東電がネジ1本換えることも許さなかったが、いざ運転を始めてみると、1号機の起動試験運転中だけで2600件の修理依頼があり、3号機は臨界事故まで起こした。
 またGEは竜巻の経験はあるが、津波のことはまったく念頭になく、電源盤や非常用ディーゼル発電機などを、補修がやりやすいよう、建屋の地下にまとめて設置しており、これが3・11の大惨事を招いた。
 私は今般上梓した故・吉田昌郎氏のモデル小説『ザ・原発所長』を書くに当って2年間取材したが、東電の政治色の濃さが印象的だった。吉田氏が入社した頃の東電の交際費は年間20億円で、政治家のパーティー券購入や原発の地元対策費にあてられていた。自民党の選挙カーが原発の近くに来ると、職員たちが道端に勢揃いして迎え、執行役員以上は自民党の政治資金団体に毎年献金していた(執行役員だった吉田氏は毎年7万円)。また経済産業省からの天下りは2011年まで50年間受け入れ、政治家の元秘書などを子会社で雇っていた。原発の地元では、反対派住民の間に楔を打ち込むように、数多くの社員を採用していた。
 吉田氏は、福島第一、第二原発と本店勤務を繰り返しながら、順調にサラリーマン人生を歩んでいった。原子力本部の中ではいわゆるインテリ・エリートが多い技術畑(原子炉の設計や燃焼管理に関する技術研究部門)ではなく、現場に近い補修畑が長かった。大学時代に知り合った夫人と20代で結婚し、3人の息子をもうけた。
(中略)
 1995年、吉田氏は業界団体である電気事業連合会の原子力部に課長待遇で出向した。このときの上司(原子力部長)が3・11事故の際に「おい、吉田ぁ、ドライウェルベントできるんだったら、すぐやれ、早く!」と怒鳴った早瀬佑一氏(元副社長)である。
 電事連では、「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故のビデオ隠しをした動燃の改革についての業界提案の取りまとめなどをした(具体的には、動燃が手がけていた新型転換炉「ふげん」の廃炉提案、文部科学省からの一部事業の引取り要請の拒否等)。
 4年間の出向から戻ると、福島第二原発の発電部長になり、その後、2002年7月に本店原子力管理部グループマネージャーとなった。
 この間、日本に「維持規格」が存在しないことが、東電の原発技術者たちを悩ませていた。米国では1971年に、運転開始後の原発に関する維持規格(補修規定)が定められ、傷などは度合いによって、補修をするかそのまま使うかを判断することができた。しかし日本では、設計・製造時の合格基準である製造規格と維持規格の区別がなく、原発の機器は常に新品の状態であることが求められていた。
 1996年に、日本機械学会が746ページにわたる詳細な維持規格案を策定したが、通産省(現・経産省)は「これまで原発は絶対安全だと説明してきたのに、今さら傷があるとはいえない」と、法令化に消極的だった。
 仕方がないので東電の現場では、機械学会の維持規格案に沿って補修をし、虚偽の報告をしていた。そのことをGE子会社の日系米国人が内部告発し、2002年に原発トラブル隠し事件に発展した。歴代の4社長が総退陣し、榎本聡明原子力本部長(副社長)が辞任し、大量の処分者を出した。
 吉田氏も社内の事情聴取を受け、げっそりやつれるほどだったが、同時に、過去の点検記録の精査など、事態の対処に当った。慌てた経産省はすぐに原発の維持規格を定めたが、東電の原子力本部は要となる人材と信用を失った。維持規格策定に携わっていた元大学教員は、「維持規格さえあれば、問題になるような補修方法じゃなかった」と残念がる。
 吉田氏はその後、福島第一原発のユニット所長を経て、2007年4月に本店の原子力設備管理部長に就任した。その3カ月後に、新潟県中越沖地震が発生し、柏崎刈羽原発が広範囲かつ深刻な損傷を受け、約3年間をかけて、徹底した改善策を実施する大仕事に取り組んだ。

 東京電力も規制当局も、何をするにも原発の稼働ありきを前提に動いているように見受けられるが、安全性に疑問が生じた場合は、先ず、運転を停止し、安全が確認されてから稼働することを考えてもよいのではないか。――東京第5検察審査会議決書(平成26年7月23日)

 吉田氏が原子力設備管理部長だった2008年3月、社内の土木調査グループから、国の研究機関である地震調査研究推進本部の長期評価を用いて試算したところ、福島第一原発が15.7mの津波に襲われる可能性があるという報告がなされた。
 しかし、吉田氏を含む東京電力の経営陣は、そうした津波の発生確率は1万年から10万年に1回程度で、防潮堤建設にも数百億円の費用がかかることを主な理由に、対策を打たなかった。
 これについて、去る7月17日に出された東京第5検察審査会の2度目の議決は、「福島第一原発の敷地南側のO.P.(注・小名浜港工事基準面)+15.7mという津波の試算結果は、原子力発電に関わる者としては絶対に無視することができないものというべきである」と断じ、勝俣恒久(当時社長)、武黒一郎(同副社長)、武藤栄(同常務)の3氏を業務上過失致死容疑で強制起訴されるべきとした。吉田氏も生きていたら、起訴されていた可能性がある。
 ただ、当時の社内のやり取りだけを見ていたのでは、彼らがなぜ津波対策を怠ったのか、十分には解明できない。

コストカットの圧力

 注目すべき点は、東電が永田町、霞が関と強い結びつきを有する一方、彼らから恒常的に電力料金の値下げを求められ、社内でコストカットと原発稼働率向上の嵐が吹き荒れていたことだ。
 コストカットに関する、吉田氏の入社以降の主な動きは次の通りである。
 1982年6月、東電はコストダウン方策推進会議を設置し、1000人の社員削減を含むコスト削減に取り組んだ。翌年6月、通産省の私的懇談会は原発のコストを1割程度削減できる方法について報告書をまとめた。1984年9月頃、東電は柏崎刈羽原発の取水口施設を合理化し、工費を15%削減。1985年9月のプラザ合意による円高で、円高差益還元圧力が強まり、電気料金を値下げ。この頃、関西電力が原発比率を向上させて収益力を高めた。1987年9月、東電はコスト削減策を中心に25件の改善事例を社長表彰。1992年、バブル経済崩壊後の電力需要低迷に対処するため社内の合理化を推進。
 原発の稼働率向上に関しては、平成の初め頃に90日間かけていた定期点検の日数を1999年頃には40日前後に短縮した。
 1993年に荒木浩氏が社長に就任すると「兜町のほうを見て仕事をする」「東京電力を普通の民間企業にする」とコスト削減の大号令を発し、3・11事故当時の社長だった清水正孝氏は、1990年代の電力一部自由化の時代に前任社長の勝俣恒久氏の命を受け、資材調達改革を断行した。
 上記のように、コスト削減・原発稼働率向上一色の社風に加え、15.7mの試算が出た当時は、新潟県中越沖地震で損傷を受けた柏崎刈羽原発の修繕費用に約4000億円、福島の2つの原発の耐震工事に約1000億円がかかって、経営陣がコストに過敏になっていた。これが結果的に、「蓋然性(確率)と費用の比較衡量」という誤った思考に導き、津波対策を怠った。自然災害は待ったなしなのにである。

 しかし、東電の「判断ミス」より罪が重いと思われるのが、規制庁である原子力安全・保安院の「怠慢」だ。2009年9月に、東電から、福島第一原発を8.6〜8.9mの津波が襲う可能性があるという試算結果を説明され、その場合、ポンプの電動機が水没して冷却機能が失われることを認識していたが、「聞き置いた」だけだった。
 また当時、保安院の耐震安全審査室長を務めていた小林勝氏は、貞観地震(869年に三陸地方を襲った津波を伴う大地震)の問題と原子炉の安全性についてはっきりさせておくべきだと野口哲男安全審査課長に進言したところ「その件は、原子力安全委員会と手を握っているから、余計なことをいうな」と叱責され、ノンキャリのトップで実質的な人事権者だった原昭吾広報課長からは「あまり関わるとクビになるよ」と警告されたと、政府事故調の聴取で答えている。
 挙句の果てに、3・11事故の際は、福島第一にいた7人の保安院の検査官は大熊町のオフサイトセンターに移動ないしは逃げ出し、「ラプチャーディスク(ベント配管の途中にある破裂板)をあらかじめ破っておけないか」と的外れな質問などをして吉田昌郎氏を呆れさせ(同ディスクは中の圧力が一定になったとき壊れる)、国費でハーバード・ロースクールに留学した西山英彦審議官は、現場が事故収束に懸命なときに、経産省の若い女性職員との不倫が発覚して更迭された。
(後略)

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