[2018_03_12_01]<大震災7年>「まさかの事故」福島原発建設の男性、戸惑いと郷愁募る歳月(佐賀新聞2018年3月12日)
 
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<大震災7年>「まさかの事故」福島原発建設の男性、戸惑いと郷愁募る歳月

 7年の歳月を重ねても、行き着く先が見通せない東京電力福島第1原発の事故。立地する福島県で長年暮らし、原発の建設やメンテナンスに携わった男性(71)が佐賀県内に身を寄せている。「事故は起きない」と信じ切っていた身に降りかかった原子力の災厄。「まさかこんなことになるとは」。戸惑いと郷愁を募らせた7年だった。
 鶴田良夫さん(仮名)は佐賀県出身。中学を卒業して職を転々とした後、関東で建設会社に入り、火力発電所の建設などに従事した。1970年代、福島第1原発の建設にも携わり、原発稼働後はメンテナンス業務を任され、原発がある大熊町に腰を落ち着けた。
 配管やバルブの検査、維持管理の仕事が長かった。「放射線への怖さはあった。でもみんな割り切って仕事をしていて、慣れみたいなものがあった」
 震災発生時、青森県六ケ所村の原子力施設に出張していた。「分解して置いていたパイプがガタガタ揺れて、作業員が出口に殺到した。被ばく線量のチェックを経ないと外に出られなかったから、パニック状態になっていた」と振り返る。
 2週間ほど青森で足止めされた後、佐賀の実家に戻った。大熊に帰ろうにも、交通網も寸断されていた。
 福島第1原発建設時、原子炉建屋の最下層に非常時の発電設備を配置していて、雨の時に冠水していたのを見て、東電社員が上司に指摘していた光景が記憶に残る。だが、東電は特に対応する様子はなく、鶴田さんは「心配するほどのことではなかったんだ」と思い込んだ。作業員ごとの被ばく線量のチェックや細かな作業手順…。ソフト面もハード面も安全対策は万全だと信じていた。
 原発から5キロの自宅に立ち入ることができたのは事故の半年後。一時帰宅するたびに住み慣れた土地の荒廃ぶりに胸が痛む。道はでこぼこで、草は伸び放題。除染した土などを詰め込んだ黒いフレコンバッグは至る所に山積みになっていた。「こんな状況で帰還者はどれだけいるのか。町の運営は成り立つのか。そんな懸念しか思い浮かばない」。自宅を含め町の大部分が帰還困難区域に含まれたまま、町は22年春の避難指示解除を目指す。
 佐賀は生まれ故郷だが、心を許せる知人、友人は福島に多い。「原発の町でもあったから、関連の仕事をしていても特別な反応はなかった。でも、佐賀に戻って前の仕事のことを話すと言葉が少なくなる」。大熊町の方が、先行きは見通せないものの安らかに暮らせるのでは、とも思う。
 「今はどう生きていくかで精いっぱい」。長年、仕事先として関わってきた福島第1原発で起きた事故に、まだしっかりと向き合うことはできていない。
 そのさなか、九州電力玄海原発(東松浦郡玄海町)の再稼働が目前に迫る。「人が作るものに100%の安全はない。稼働させるごとに毎日、誰も手に負えない核のごみが増えていく。それがしっかり伝わっていているのか」。使用済み核燃料でいっぱいになっていた六ケ所村の施設の光景を思い浮かべながら、覚悟を問い掛ける。

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