[2021_02_12_02]原発は「明るい未来ではなく、破滅でした」 推進標語作者の苦悩(毎日新聞2021年2月12日)
 
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原発は「明るい未来ではなく、破滅でした」 推進標語作者の苦悩

 東京電力福島第1原発の爆発事故で、今も住民の帰還が果たせぬ福島県双葉町。その駅前商店街の入り口に、かつて、原発を推進する幅16メートルの看板が掲げられていた。
 「原子力 明るい未来のエネルギー」。看板に記された標語の作者は、大沼勇治さん、44歳。町を挙げての公募に応募し、優秀賞に輝いた1988年は、坊主頭の小学校の6年生だった。
 「看板の下を通る度に誇らしい思いでした」
 大沼さんの述懐だ。
 それが、あの日を境に一転した。無人の町に残された広告塔は、「原発の安全神話」を逆照射する遺構として、メディアに繰り返し登場した。
 そして、今月半ば。茨城県の自宅から、里帰りした大沼さんは、今に至る思いを口にした。
 「放射能に汚染された故郷が解体されていく姿を、事故が投げかけた教訓とともに子供たちに伝えていくことが、私にできる務めだと思います」
 飛散する放射能から逃れるように、妊娠7カ月の妻と町を去ってから、里帰りを重ねること101回。取り壊されていく故郷の町並みや山河を、写真に記録してきた。
 震災後、夫婦は親類のいる愛知県に避難した。2児を授かり、7年前に茨城に新居を構えた。
 「初めての里帰り」は、震災の年の夏。愛知から車を運転し、往復1200キロの長旅だった。
 各地の避難先からやって来た町民が内陸の町で合流し、防護服を身につけてバスに分乗。2時間に限定された滞在中に、物が散乱した家から結婚指輪と祖父母の位牌(いはい)と、思い出が詰まったアルバムを持ち帰った。
 「バスが看板の下を通る時、標語の作者だと気づかれないように、身をすくめていました」
 愛知の新聞に「福島からの避難者」と紹介され、ネット上で中傷の言葉が飛び交っていた。
 <原発マネーでいい思いをしたくせに、自業自得><愛知まで逃げて来た>。他人の目に敏感になっていた時期だった。
 「憤りと怒りと悔いが交錯して。出産間もない妻には、同じ思いはさせたくなかった」。ネットカフェに通い、自宅でふさぎ込んでいる姿を、妻は記憶する。
 反原発の集会に、夫婦で顔を出したのは、翌春だった。「双葉からの避難者です」と、いきなりマイクを手渡された。
 「あの標語を作った本人です。原発がもたらしたのは、明るい未来ではなく、破滅でした」
 カミングアウトしたことで、出会いが生まれ、さまざまな社会問題にまなざしが向いた。全国各地から声がかかり、語り始めたのはそれからだ。
 それでも中傷は続き、落ち込むこともあった。「つらい時は、休めばいいのよ」。そんな時は、妻の言葉に救われた。
 「看板を撤去」との報に、看板の下で抗議のプラカードを掲げたのは6年前。大沼さんの「51回目の里帰り」だった。
 後日「保存」に賛同する6502人の署名を町に提出。標語の文字板は保管され、「伝承施設ができたら、展示する」との言質を得た。
 「100回目」の昨秋の里帰りは、小学3年と1年の息子が加わった。
 「避難した子がいじめにあったとの報道もあって、家で原発の話は控えてきました。でも、標語を作った年齢に、息子が近づく中で、私の故郷を見せておきたいと、思い立ちました」「原発の話は難しかったけれど、魚釣りや小学校の思い出は、目を輝かせて聞いてくれました」
 これは、旅の終わりのパパの感想。傍らから、ママが言葉を添えた。
 「この人、本当に故郷が好きなんですよ」
 そんな大沼さんに、年明け早々にニュースが届いた。
 町にオープンした原子力災害伝承館の敷地に、県が看板の展示を検討中、との報道だった。
 大沼さんは今月18日、知事に、要請書を送っている。そこには、こんな思いが綴(つづ)ってある。
 <二度と同じ悲劇を繰り返さない為に、看板をできる限り、当時のままの形で残してほしい>【萩尾信也】
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