[2021_06_05_01]福島第一原発事故 想定高さ「15.7メートル」保安院に報告4日後、現実に… 「津波対策は不可能だったのか」第5回 NHKスペシャル『メルトダウン』取材班(現代ビジネス2021年6月5日)
 
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福島第一原発事故 想定高さ「15.7メートル」保安院に報告4日後、現実に… 「津波対策は不可能だったのか」第5回 NHKスペシャル『メルトダウン』取材班

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3つの原子炉が相次いでメルトダウンし、原子炉や格納容器を納める原子炉建屋が次々に爆発するという未曾有の原発事故を描いた『福島第一原発事故の「真実」』(小社刊)が大反響を呼んでいる。

連載第1回 「巨大津波は想定されていた!?」はこちら

発売から2ヵ月あまりで、『朝日新聞』『毎日新聞』『東京新聞』『文藝春秋』『しんぶん赤旗』『公明新聞』など様々なメディアで取り上げられた。

「今になって明らかになった事実には、驚く他ない。背筋が寒くなり、とにかくこれは、皆が事実に向き合って考えるところから出直す課題だと強く思う」(毎日新聞書評、JT生命誌研究館名誉館長 中村桂子氏)

現代ビジネス、ブルーバックスWebでは、「2号機の危機」を描いた同書6章の完全公開に続いて、「津波対策の謎」について検証した17章を全5回の連載で完全公開する。実は巨大津波の襲来に備えるチャンスは複数あったことが取材からわかってきた。では、なぜ対策がなされなかったのか? そこには東電をはじめとした各電力会社、原子力安全・保安院などの国、そして自治体が、“不確定なリスク”に正面から向き合えなかった姿が浮かび上がってきた。

「津波対策は不可能だったのか」これまでの各回はこちらから

第1回 福島第一原発事故の不都合な真実「巨大津波は想定されていた!?」
第2回 福島第一原発事故 動き始めた津波対策はなぜ実現しなかったのか?
第3回 福島第一原発事故 直前の津波対策で事故を回避した電力会社があった
第4回 福島第一原発事故 未曾有の「貞観地震・津波」を[参考]扱いにした業界の横並び構図


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最後のチャンスと自治体

 貞観地震で巨大な津波が太平洋沿岸を襲ったことを示す証拠。つまりそれは、将来、同じような規模の津波が東北を襲う可能性を否定できなくなったということでもある。一連の貞観津波の研究成果を生かすチャンスは実はもう一回だけ巡ってくる。命運を握ったのは自治体だ。
 2010年8月6日。東日本大震災の7ヵ月前だ。福島県庁2階の特別室で開かれた幹部会議。ここで当時の福島県知事の佐藤雄平(さとう ゆうへい・62歳)が発言した。
 「プルサーマル実施を最終的に受けることにします」
 プルサーマルとは、原発で使い終わった核燃料から取り出したプルトニウムを「燃料」という特殊な核燃料に加工し、再び原発で燃やす方法だ。エネルギー資源に乏しい日本では、核燃料をリサイクルして自国でエネルギーを確保しようとする「核燃料サイクル政策」を掲げている。プルサーマルはこの政策を支える一つの方法であり、国の旗振りのもと、電力各社はプルサーマルを急いでいた。
 この日、福島県は福島第一原発3号機でプルサーマルを開始することを認めた。そして、翌月、3号機でのプルサーマルが開始されたのだった。国と東京電力の悲願の一つが成就した。
 福島第一原発でのプルサーマルは一度、事前了解を得ていた。1999年にはMOX燃料が運び込まれ、実施に向けた準備が進められていた。しかし、東京電力が原子炉の部品に入ったひびを隠したことなどの不祥事が判明。信頼が失墜し福島県も強く反発。プルサーマルが白紙撤回となっていた。東京電力は信頼回復活動を重ね、プルサーマルの安全性なども説明。県の理解も進んだ。
 また県が認めた別の理由もあった。福島第一原発では、7号機、8号機の増設計画が進んでいた。地元の振興につながると立地自治体の双葉町なども増設に前向きだった。この増設は、プルサーマルの開始が実質的な前提条件ともなっていた。県には立地の町から要望も出されていた。こうした背景もあり、県は福島第一原発3号機でのプルサーマルにゴーサインを出したのだった。
 しかし、ここに至るまでに、ある議論がなされていた。そこに貞観津波のリスクが上るチャンスがあった。
 それは県がプルサーマル受け入れの条件として事前に東京電力と国に出していたものに関わる。(1)施設の耐震安全性の確保、(2)運転開始から30年以上がたった原子炉などの安全対策、(3)プルサーマル用のMOX燃料の健全性の確認の3つである。この1つ目の「耐震安全性の確保」の条件が貞観津波に関わってくるのだった。

プルサーマル開始に翻弄されるバックチェックの評価

 MOX燃料を原子炉に入れるタイミングは、法律で13ヵ月に1回、運転を止める「定期検査」だけだ。国と県の交渉が行われていた2010年3月の時点で、福島第一原発3号機の次の定期検査で燃料を入れるタイミングは5ヵ月後の8月だった。このため最速となるこの日程が期待された。経済産業省の中で原子力の推進を担当する資源エネルギー庁はそれまでに福島県の条件をクリアすることを目指したのだ。
 当時、福島第一原発では5号機でバックチェックの中間報告が完了していた。この中間報告には津波評価は含まれていない。ただ、県が条件に出した3号機の「耐震安全性の確保」は、場合によっては3号機でもバックチェックを実施することが必要になるかもしれなかった。ここでバックチェックを中間報告だけでなく津波も含む最終報告の評価まで新たに行うと段違いに時間がかかり次の定期検査には間に合わない。資源エネルギー庁はこのあたりを心配し、後に当時の経済産業大臣の直嶋正行(なおしま まさゆき・64歳)にもこの状況をレクチャーしている。
 もし最終報告の評価まで行うと、バックチェックの対応はかなりの時間を必要としてしまうこと。そして、原子炉にMOX燃料を入れる8月という直近のタイミングに間に合わないと、その次は1年後になることなどだ。直嶋は事情を知った上で、保安院にも対応するよう指示をすることになる。

 できるだけ早く所定の手続きを進めたいと考えていた資源エネルギー庁は5号機に続き3号機についても、バックチェックを実施するよう保安院に打診する。しかし、突然、予定にはなかった評価を行うことは、他の原発の審査などを後回しにすることになる。安全の砦たる保安院としては、プルサーマルの実施という推進行政については管轄外のことだ。

 当時の保安院の幹部に取材をすると、このときは、かなり資源エネルギー庁の依頼に抵抗したと語っている。当時、保安院にいた他の関係者も「介入しないでくれとの思いがあった」と振り返っている。しかし、同じ経済産業省の中にある保安院。大臣の指示も出される。結局、保安院は3号機のバックチェックも手がけることになる。ただ津波についてどうするのか。保安院の審議官が院長ら上層部に説明した内容について担当者たちに送ったメールを入手。当時の受け止めの様子がわかってきた。
 「1F3(福島第一原発3号機)の耐震バックチェックでは、貞観の地震による津波評価が最大の不確定要素である」
 福島県の条件に応えるため、3号機でバックチェックの審査を行った場合、貞観津波について、評価されずに済むのだろうかという問題提起であった。もし津波の問題に議論が発展した場合、審査は長期化すると予想される。そうすると、早くプルサーマルの実施にまでもっていきたい資源エネルギー庁の思惑とは反することになる。また、メールには「バックチェックの評価をやれと言われても、何が起こるかわかりませんよ」とまで記されていた。

国と福島県 貞観津波を巡る問答の結末は

 こうした資源エネルギー庁と保安院のやりとりが進む一方、資源エネルギー庁は福島県との交渉も着々と進めていた。県との調整をできるだけ早く行うためだ。
 私たちは国と県の交渉の内実に迫るため、県側の交渉の窓口だった元職員に取材をお願いした。まだ寒さの厳しい2020年1月、JR福島駅前で待ち合わせをした。そこに現れた初老の男性。「こんにちは」と話しかけると、コートを着込みハットを被った男性は深々とお辞儀を返した。当時、福島県の原子力安全対策課長を務めた小山吉弘(こやま よしひろ・67歳)だ。
 初めてカメラのインタビューに応じたという。自らの経験を教訓にしてほしいという理由だった。緊張した面持ちで、取材班に資源エネルギー庁との交渉の様子を話してくれた。
 小山は福島県庁で30年以上、原発の対応に当たってきた。県民の不安や疑問になるべく応えようと、独自に原発の安全性に関わる記事や論文などをスクラップしては、情報収集を欠かさず続けてきた。
 小山自身、その中で「貞観津波」の存在や研究成果について知っていたという。
 小山が貞観津波のリスクをさらに認識したのは2009年6月、保安院で行われた福島第一原発5号機のバックチェックの審査の中での、例の産業技術総合研究所の岡村の発言だ。
 「このように貞観津波の話が出てくると、いずれは議論をしなければいけないと思った」
 小山は、その当時のやりとりを思い出しながらそう答えた。
 2010年3月から4月にかけて小山は数回、東京・霞が関の経済産業省に出張した。ここで資源エネルギー庁と交渉の場が持たれた。この中で資源エネルギー庁の担当者は「耐震安全性の確保」を具体的にどういう内容で考えているか聞いてきたという。
 3号機についても5号機で行ったバックチェックと同様に中間報告でいいか、福島県の考えを確認するためだった。中間報告と、津波評価を含む最終報告では、かかる時間が大きく異なる。資源エネルギー庁にとってその点が重要だった。
 一方、福島県のスタンスは、安全に関わるところであり、あくまでそこは国や東京電力の責任で考えるべきというものだった。小山はそのときの対応をこう振り返った。
 「『津波とか影響評価を除くのか』などと国のほうから何度も求められました。しかし福島県で議論を限定することではなく、あまりこれをやってほしいとお答えしなかった」と。また資源エネルギー庁から具体的に対象とする津波の名前までは出してこなかったという。
 このあたりについて取材班は、当時の資源エネルギー庁の交渉窓口だった担当者にも話を聞くことができた。少し忘れていることもあると前置きした上で交渉担当者は「貞観津波について差し迫ったリスクとは思わなかったと思う。安全性に影響するようなものではないと受け止めていた」と話した。そして福島県との交渉の中で貞観津波に触れたかどうかはよく覚えていないとのことだった。
 双方への取材から言えることは一連の交渉で貞観津波が議論の俎上に明確には上ってはいなかったということだった。

津波の予想高を知っていた人は、ごく一部

 保安院は先述のメールの通り貞観津波についての認識はあった。そして福島第一原発は敷地が高くなく、貞観津波が原子炉冷却に必要な海水ポンプのある敷地を越えてくる懸念も共有されていた。しかし、東京電力が前年の2009年9月7日に保安院に示した「最大で約9メートル」という計算結果は、保安院のごく一部の担当者でとどまっていたのだ。
 また、小山も貞観津波の想定津波について東京電力が計算した詳しい結果を知らされていなかった。
 小山は、もし具体的な想定津波の高さを知っていたら、安全性の担保は国と東京電力に求めたとしても、交渉の仕方が変わったのではないかと悔恨とともに振り返る。
 「昔、トラブルが起きたときに福島県から原発を止めるように要請したことさえある。具体的な数値を知り『このままでは駄目だ』という話になれば、福島第一原発を止める、止めなきゃいけないと、そんな対応をしていたはずです」と。
 小山は、東京電力と情報共有が図れなかったこと、そして貞観津波について問題提起できなかったことを今でも自身の力不足だったと痛恨の念を抱いていた。そして、結果として津波の評価については先延ばしになったことについて「津波についてオープンにして議論する場が設けられずに、こんな事態になってしまった。何かもっとできたのではないかという悔いは当然ある」とカメラに語った。
 結果、福島県からプルサーマル実施の条件で示された「耐震安全性の確保」は、津波評価を含めない地震評価の中間報告をもって了とされた。こうして貞観津波を巡る最後のチャンスにも手が届かなかったのである。

東日本大震災4日前に伝えられた「15.7メートル」

 2010年8月。福島第一原発を巨大津波が襲う7ヵ月前のことだ。東京電力の内部で津波対策を進めるためのワーキンググループが立ち上がった。グループには、土木グループをはじめ、津波対策に関わる各グループの担当者が集められた。
 2008年7月に武藤が研究を進める方針を示し、対策を事実上保留して以降、各現場では各グループの検討は進められていたが、具体的な対策はこの2年間で進んでいなかった。
 その流れを変えたワーキンググループの立ち上げ。きっかけは、皮肉にも公表を行っていなかった日本原電の津波対策を東京電力の担当者が知ったことだった。
 「これではいけない。弊社もしっかりやらないと」
 きちんとした体制で対策の検討を進める必要を強く感じた担当者はワーキンググループの立ち上げを幹部に進言したのである。
 ようやく社内の議論が胎動した東京電力。しかし、検討は容易には進まなかった。2010年12月に開かれた第2回目の会合では怒声さえ響いたという。当時の状況を知る土木グループの社員が裁判で証言している。
 「いろいろ対策を所掌しているグループから、こんな問題があって難しいという話がたくさん出てきた」
 これに対して、ワーキンググループのトップを務めた幹部は
 「そんなこと言ってないで何かできることをちゃんと考えろ」「できないことを並べ立てているだけじゃなくて、解決する方法を考えろ」
 怒気を含んだ声で指示を出したという。現場の動きは鈍かった。なぜなのか。
 当時の状況を知る東京電力の元幹部は理由の一つに東京電力という巨大組織の縦割り、風通しの悪さがあったのではないかと言う。縦割りで横のつながりが弱く、部門と部門の間で情報が遮断されていた。それゆえに土木グループの危機感は他のグループには伝わっていなかったというのである。
 また、別の元幹部は、縦割りでそれぞれ専門性が特化しているために、全体としての安全性を見ることができなかったとも振り返っている。例えば、津波の高さを想定する担当者は、原子炉を冷やすために重要な安全設備がどこにあるのかについては十分に把握できていない。そのため、津波が敷地の高さを超えて建屋に浸水すればすぐに炉心損傷につながりうるという想像力を持つことができなかった。
 一方で、安全対策を検討する担当者からすれば、地震や津波についての専門知識はほとんどなく、本当にそのような巨大津波に備える必要があるのかと、危機感を持ち得なかったのではないかというのである。先に語った日本原電とは違った組織の困難さを抱えていた。
 しかし、ともあれ、ワーキンググループの設置で前に進み始めた東京電力。会合を開くなかで、リスクの共有が徐々に進んできた。2011年の2月14日には4回目の会合が開かれた。議事録によると、建屋の浸水防止対策などについて、各グループが連携して取り組んでいくことや津波の解析や模型での実験を実施することなどが検討されている。
 ワーキンググループでは、津波が原子炉建屋のある敷地まで遡上し、建屋に浸水する可能性があることを前提とし、安全上重要な電源を守る対策の必要性を認識していた。この日のワーキンググループは5回目の開催を4月4日に決めて閉会した。しかし次の会合が開かれることはなかった。
 2011年3月7日。保安院の担当者2人は、東京電力からあの15.7メートルという津波の計算結果を初めて伝えられる(本連載第2回参照)。聞いた1人は、どう理解したらいいかわからない状態になったという。東京電力内でこの津波の高さの想定結果が出されてから3年もの年月がたっていた。
 そしてその4日後、東日本大震災が発生し福島第一原発に15メートルを超える巨大津波が襲いかかったのだった。

それぞれの悔恨と教訓

 取材班は、東京電力の旧経営陣3人の裁判を端緒に膨大な資料を集め、100人を超える関係者に話を聞いて、事故前の時間を遡った取材を終えた。
 多くの人が東日本大震災の前、地震に比べて津波を直近の危機と捉える雰囲気はなかったと語った。津波に関する調査や研究、シミュレーションで想定された津波が実際に押し寄せ、福島第一原発が致命的な損傷を受けることを想像できなかった。リスクの存在は把握していたものの確定的ではないとして横に置いた。
 原発の安全神話。自治体への慮り。原発推進の国家政策。民間企業としての経営。電力業界の横並び。そこに国と自治体の思惑も交差し、津波のリスクは正面から取り上げられなかった。
 津波対策につながるかもしれなかった4つの機会は手のひらからこぼれ落ちていった。
 原発は他の施設とは決定的に違うことがある。それは一旦事故が起きると、その被害はとてつもなく大きく長期に及ぶということだ。リスクの考え方は最大限厳しくあるべきだろう。そうした認識がどれほど電力業界や国、自治体にあったのか。結果的に、不確実だからと後回しにされていった実態がそこにはあった。
 津波想定に中心的に携わり裁判で証言した東京電力の元幹部は、法廷で、個人的な思いを聞かれ、一つ一つ言葉を絞り出すようにしてこう述懐した。
 「福島であれだけの事故が起きたということに関しては、やっぱり、どこかで何かを間違っていたわけで、昭和40年代から間違っていたのかもしれないし、あるいは、誰がやってもああなったのかもしれない。でも、あってはならない事故が起きたということは、やっぱり何か間違っているのだと思います。どこで間違ったのか。東京電力は、私は、どこで間違ったのか。それは、ずっと、今も気にはなっています」と。
 東京電力の別の元幹部は津波対策のワーキンググループの開始が遅すぎたことを今も悔やんでいる。柏崎刈羽原発の再稼働に意識を取られすぎて、福島が片手間になってしまったことを指摘した。「2年間の空白という事実は重い。それは否定できないし、言い訳するのは難しい」と静かに語る。また、どうすればよかったのか、という問いに次のような考えを語った。
 「ちゃんと水を原子炉に入れたり、非常用電源を高いところに置いたりということは、お金をかけないでできたはずです。悪かったのは防潮堤ができなかったことじゃないし、津波の評価だっていろいろあったが、可能性として、当時から見れば、100%じゃないかもしれないけど、そういうことが言われているなら、せいぜい数億円だから非常時の対策をやっとこうと誰も言わなかった。それがやっぱり風土とか文化の問題で、問題はそこなんじゃないかと思います」と。
 この元幹部はそうした柔軟な発想が出てこなかった理由について組織の問題をあげた。大きな組織の縦割り、風通しの悪さ。また分業や専門性が進みすぎた結果、全体をしてリスクを把握し、対応する部署や人がいなくなり、結果、リスクを見誤ったのではないかと総括した。
 そして、原子力安全・保安院。地震・津波を担当した元幹部は、バックチェックの最終報告の審査でいずれ津波の議論を行えばよいと考え続けてきたことを後悔し「東京電力の試算結果をもとに対策を取っても事故を防げたかはわかりませんが、あのとき、最終報告の期限を明確に決めて貞観津波の知見に向き合っていれば、何かしら津波対策をできたかもしれません」とした。
 原発事故のときに保安院を率いた元次長の平岡英治にも聞いた。溢水勉強会を立ち上げるきっかけをつくった平岡は、保安院の中でも津波のリスクを気にかけていた1人だった。しかし、その平岡も原発で相次いださまざまな不祥事や地震などのトラブルなどへの対応に追われていたと話し、優先順位を付けてリスクに向き合うべきだったとたる思いを述べた。
 「日本のような自然災害の非常に多い国において、自然災害から原子力発電所の安全をどう守るかという視点をもっと強く持つべきでした。将来起こりえるかもしれない災害に対し、規制側の人材やリソースをもっと投入する必要があり、そこが欠けていたかもしれません。原子炉の損傷につながるような重大リスクに対して活動を集中していく余地はあったのではないかと、大きな反省をしています」
 津波発生の1年前、国との交渉を担った福島県の小山吉弘は2013年3月に県庁を定年退職した。月に一回は大熊町の実家に通う。そこは曾祖父から4代にわたって100年近く暮らしてきた場所だった。原発事故で避難を余儀なくされ、今も帰還困難区域に指定されたままだ。
 事故後、家屋は傷み維持が難しくなって、2019年に解体した。いまは広大な庭に手つかずの木々が残るのみだ。小山は、ひときわ目を引く大きな桜の木を見上げてつぶやくように話した。
 「親から譲っていただいたものを、こうして荒廃させてしまったことが無念です。父が住んでいた頃は桜のライトアップなんかをやって、よく花見をしていました。柚や木蓮、牡丹もありました。畑ではキウイを作っていたんです」
 小山はそう話して懐かしそうに庭を見渡す。
 目を周囲にやると他の家々も解体が進んでいた。地区は更地が目立った。
 小山は別の場所に暮らしている。しかし、大熊町には通い続けている。
 「ふるさとに関わらなければならないというか、逃げられない、そういう感覚です」
 福島県職員として、大熊町の住民として、原発と向き合い、時々の問題に懸命に対処してきた自負はある。ただ、津波に対しては何かできたのではないかと悔やむ。
 「事故が起きてみれば、お金をかけずに安全を向上させる道はいくらでもあったのに、なぜもっと前にできなかったのかと思います」
 変わり果てた故郷を前に小山は事故を防ぐ違う道が片方で開けていたのではないかと今でも自問自答を続けている。
 長きにわたり、お読みいただきありがとうございました。本書『福島第一原発事故の真実』もぜひご一読ください! 
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