[2021_06_06_01]「なぜ20メートルで線を引く」「納得しろと言われても…」【復興を問う 帰還困難の地】(77)(福島民報2021年6月6日)
 
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「なぜ20メートルで線を引く」「納得しろと言われても…」【復興を問う 帰還困難の地】(77)

 福島県富岡町深谷行政区の副区長を務める松本哲朗さん(68)は東京電力福島第一原発事故による避難先の郡山市の住宅で、庭に育つイロハモミジの木を見つめた。「七年前、住み始めた時に植えたんだ。二倍近くの大きさに育った」。成長はうれしいものの、古里に帰れない月日の長さを思うと、複雑な心境になる。
 深谷行政区は原発事故に伴う帰還困難区域で整備が進められている特定復興再生拠点区域(復興拠点)に含まれず、取り残されている。
 環境省は昨年十二月、富岡町の復興拠点外について、主要な道路沿いにある宅地や農地の除染を今年度から始める方針を示した。道路の両側二十メートル以内を対象とし、道路沿いの宅地と農地は二十メートルを超える部分も除染する。原発事故の発生から十年、手付かずの土地でようやく除染が始まる。
 だが、松本さんは「なぜ道路沿い二十メートルで線を引くのか」と疑問を抱く。除染されない土地が残り続ければ、全ての住民の帰還にはつながらない。除染された場所と、されない場所で新たな分断も起きかねない。「一部の除染だけで納得しろと言われても、無理だ」
 松本さんは深谷行政区で生まれ育った。短大を卒業後、町民の役に立ちたいとの思いで町職員となり、四十一年間勤めた。東日本大震災と原発事故の発生時は、保育所統括所長だった。富岡、夜の森両保育所の子ども約二百五十人を保護者に引き渡すため奔走した。
 川内村を経て郡山市に避難してからは、町民の多くが身を寄せる郡山市、三春町、大玉村で保育所の設立に携わった。原発事故で催せなかった保育所の修了式を、六月に市内のビッグパレットふくしまで行った。散り散りになっていた保護者や職員が涙を浮かべて再会を喜ぶ光景を目にし、町民同士のつながりの深さを実感した。
 二〇一五(平成二十七)年三月には深谷行政区の総会を原発事故発生後、初めて郡山市で開いた。「久しぶり」「元気だったかい」。知人や友人とのつかの間の再会が避難生活の苦労を忘れさせた。その後、二年ごとに開いているが、いまだに連絡先が分からない住民もいる。
 避難先の環境になじめているのか、元気に過ごしているのか−。古なじみの顔を思い浮かべては胸が痛む。
 深谷行政区は住民の結び付きが強い地域だった。ほぼ全員が顔見知りで、会えば世間話で盛り上がる。
 松本さんは古里での穏やかな日々を取り戻したいと強く願っている。これまで、行政区役員として、避難指示解除に向けた具体策を早く示すよう国に求め続けてきた。だが、避難生活を強いられてから十年が過ぎた今も、先行きは不透明だ。
 最近は住民に再会した際、知り合いの訃報を聞く機会が増えた。「お年寄りに残された時間はあまりない。国は早急に復興拠点外の方向性を示すべきだ」。古里の将来を見通せず、焦燥感が募る。
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